絶滅危惧種 ガラケー

「ガラケー、2017年行以降生産中止」のニュースに、びっくりしました。新しいものを使いこなせない、使いこなそうとしない人間は(私含め)、この世から切り捨てられていくのか・・・・。

今持っているガラケーの機能すらそのほんの一部しか使ってないのに(何も不便ではない)、スマホに変えたら悩みが増えるだけとガラケー族をとおしていましたが、これは困ったことになった。しかし、そもそも今に困っていないのに、新しい機能を勝手に示して「良いだろう!」、「便利だろう!」、古いのはいらないでしょ!というのはおせっかいではないか。困っている人や良いと思える人には勿論「良い」のでしょうが、しかし私のように今まででいいと言う人も尊重して欲しいと、ニュースに一人つっこみしていました。

ところが、少しこのニュースに関する、他の記事をみたりしていたら、「ガラホ」なるものが作られているとか。スマホの機能も一部持った基本ガラケーだとか。説明よんでもそもそもガラケー族には理解不明なことが多いのですが、見捨てられていないことがわかってほっとしています。でも料金は高くなるのだろうから、やっぱり困る。
(定森露子)

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体験との照合の大切さ

生きているという直接の体験を、言葉ですべて語り尽くすことは困難といえます。

たとえ、言葉で語ったとしても、体験のもっている豊かさのほんの僅かなことについて触れることができる程度に過ぎません。でも、語り尽くすことができないからといって、体験を実感するということの価値の大切さが決して何ら失われるわけではありません。時に、生きているという実感を味わうためには体験の実感の大切さを看過してはなりません。

ところが、現代社会は、体験の実感よりも、体験との自己照合なき情報を沢山持っていることの方に価値をおく生き方に変化してきたように思えます。しかし、そうした生き方では、生きているという実感から疎外されてしまうのでないでしょうか?

体験との照合なき自己選択や自己決定は、主体的に生きているという実感を喪失させるばかりでなく、人生が情報にひたすら翻弄されるような他律的なものに変えてしまうのではないでしょうか?      (定森恭司)