お知らせ

現在、新規の方の初回面接の予約が、ご希望の日時によっては、空きがなく、待機となる場合があることを、あらかじめご了承ください。

別の心理相談機関については、下記のサイトをご参照下さい。
参考サイト
①当室ホームページリンク集の心理相談室等
    http://kokoro.racoo.co.jp/link
②社団法人日本臨床心理士会のホームぺージ: 臨床心理士に出会うには
    http://www.jsccp.jp/near/

※電話でのご予約の場合は、日祝日・出張中・面接中は電話に出ることができず、留守録対応となっています。ご不便をおかけしますが、留守録対応の時は、その都度連絡可能時間帯等を案内していますのでご参照ください。

トラウマ(トラウマ・セラピー)とは、

「あの時の言葉がトラウマになった」と、多くの人が、「トラウマ」という言葉を日常的に使うようになりました。しかし、「トラウマ」という言葉は、人と時代によって随分使い方が異るように思われます。心理相談(心理療法、カウンセリングを含む)に40年近く携わっている者としては、特にトラウマという概念に対する社会の反応には、かなりの時間的変遷があるというのが肌感覚レベルでの実感です。何しろ、40年以上前の心理相談の現場では、「トラウマ」という言葉はほとんど使われることはなかったのですから・・・。

トラウマという概念が専門家の間で使われはじめたのは、確か阪神大震災後の被災者の方々に対する心的支援の方法を臨床心理士や精神科医等が必死に求めはじめた頃ではなかったかと思います。この時、アメリカのベトナム戦争による戦争体験とその精神的後遺症の研究から、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念が一気に日本に積極的に取り入られるようになったのです。また、その頃から、児童虐待のもたらす深刻な問題に対しても、トラウマからの研究も積極的になっていきました。その後、配偶者に対して暴力を振るうドメスティックバイオレンス(DV)や、デートにおけるDV、パワハラなどの領域でも、トラウマという切り口からの問題提起がされるようになりました。

アメリカや日本の医師を中心とした精神医学の領域では、米国精神医学会の「DSM」という診断基準でトラウマを扱うことが増えています。その定義では、死の危険に匹敵するほどの出来事に遭遇して、強い恐怖、無力感、絶望感が伴う状態への専門的概念ですので、極めて限定的使い方です。それに対して、今日、ちまたでは、「ストレスで、こころが傷ついた」という感じで、もっと広い意味で使われています。

そして恐らく、トラウマという言葉が日常的に頻発して使われるような生活の場に生きる人たちにとっては、ちょっとした相手の無理解に対する批判・不満の意味を暗喩して「トラウマ」という言葉を使う人を散見するようになってきました。この40年あまりを経て、誰もがトラウマという言葉にとても過敏になる社会になったといえます。トラウマという言葉が、新たなトラウマを生み出しているとすらいえます。

こころの現象に関して、心理学、臨床心理学や精神医学が作りだす専門用語が、その意味の奥深さや厳密性を失って、一種の流行語になってしまうと、社会そのものが、表面的な語感だけが喧噪語のように飛び交うように変質します。こうなると心理学用語や精神医学用語が悪しきレッテル貼りばかりを拡大し、人々の不安をかえってあおり、人々のこころの柔軟性や融通性を硬直化させていってしまいます。

大切なことは、「トラウマ」という言葉のもつ言質と奥深い意味です。表面的な言葉だけではとても言い表すことのできない苦しい気持ちや体験の原点に立ち返ることです。トラウマという言葉を使う立場にある人も聴く立場にある人も、人がトラウマという言葉で語りたくなるような生きづらさに耳を傾け、その苦悩を共にし、ほんの少しでもより生き易くなるような人生の道を一緒に発見・創造することの方を大切にすべきです。

社会で思われているように、こころの深い傷は、吐き出すことによって気持ちが楽になるような簡単な代物ではありません。むしろ語れば語るほど、脳神経学的な連鎖反応があって、かえって辛くなり、生き辛くなる危険性すらあります。そこで、こうした危険性を知っているカウンセラーやセラピストは、トラウマを対象としてたセラピーの研究と自己研鑽に励みます。そして、そこで学んだ「臨床の知」を生かしながら、「過去の出来事の記憶」が「今、現在のこころを支配」してしまう状態から、「現在から、過去を過去のものとし、「未来の開ける現在」に変容させていく作業に付き添おうとするのです。

人が、トラウマからいかに生き延びていくかは、クライエントやカウンセラーだけの問題でなく、みんなの問題といえるのです。
心理相談室こころ室長 定森恭司(臨床心理士)

創造的行為とは

宇宙(空)の創造的行為

 

何かを創造する行為とは、まったく何もない状態から、新しいものを創り上げることではなく、すでに創り出されているものの中に含まれつつある新しいうごめきに注目し、光をあて、新しい観点から、これまでの秩序を組み替え、再構成することといえます。

 

新たな智慧は、すでに古いものの中に潜在的に含まれている訳です。

このことをずっと遡っていくと、不思議なことに気づきます。窮極的には、絶対無(空)に至るからです。それ以上、何も含むものがなく、それ自身で、新たなものを創り出すことのできるものとは、絶対無しかあり得ないからです。

絶対的に無なるものが、すべてを含み、すべての現象を創り出しているといえるのです。仏教は、それをずっと「空」と語ってきました。

しかし、絶対有がすべてを創り出したという考え方もあります。
この場合には、一神教的な「神」のようなものが、すべてのものを創り出したということになります。この考え方は、仏教の「空」の思想とは、微妙に考え方が異るといえます。

すべてを創造するものを、絶対無とみるのか、それとも絶対有と見るのかは、微妙な違いでありながら、しかし根本的な世界観の違いになっていきます。

心理相談室“こころ” 室長 定森恭司(臨床心理士)

無自性としての“こころ”

無自性の象徴

仏教の基本的な考え方のひとつに「無自性」というのがあります。
その意味するところは、物事には、何も普遍的な本質や、実体のようなものはないということのようです。

今、ここに水があるとします。この水も温度が下げれば氷に変化します。温度が上げれば気体に変化します。気体となった水蒸気は、沢山集まれば雲に変化します。雲もきっけがあれば、雨に変化します。地上に雨が集まれば、川に変化します。このように水とは、いろいろ変化し、いろいろな物として識別されることはあっても、どこにも水という永遠不変の実体や本質というようなものはないというというわけです。

確かに、水に限らず、どこにもある一見硬くみえる石すら、いずれは風化していきます。

いやそれ以上に、最近の量子力学的では、極限の世界で、一見、硬くみえる粒子ですら、いくつかの波動と重ね合わせの特異点のようなものだといいだしています。こうなると、万物を本質によって識別し、識別された事物の同士が普遍法則で結びついていたこれまでの固定的な世界のイメージが、その根っこのところで、数え切れない波動の重なり合いが織りなす絶えず変化する流動的世界のイメージに変化してしまいます。各事物を区別していた本質的な実体の差異が、どんどん解体して、すべては、「無自性」のあらわれという仏教的世界観に限りなく近づくことになるわけです。

実は、「無自性」を突き詰めていくと、“こころ”も無自性と気づくことができます。

誰もが、行動、感情、愛憎、思考・・・などに「こころの働きの変化」を感じとることはできても、“こころ”そのものを見ることはできず、“その本質や実体など掴めないことに気づきます。

“こころ”も、「無自性」のため、“こころ”の本質や実体を掴めないわけです。

心理臨床では、「臨床の知」を大切にしますが、般若心経などは、どうやら、ずっと、昔から、こうした「智慧」を説き続けてきているようです。

心理相談室“こころ” 室長 定森恭司(臨床心理士)