不一致の拡大

専門家のロゴスが、場を支配する時代が到来してきています。

価値の多元化・多様化が高まり、人と人との間の不調和感や違和感が高まる社会にあっては、ともするとその不確実性に人々は耐えかねて、専門家と称する人のロゴスに頼る傾向を強めているからです。

しかし、専門家のロゴスに頼るということは、専門家に判断基準を一任することにほかなりません。しかし、専門家を活用するのではなく、一任してしまうと、違和感を実感している感性的次元とロゴスでもって知的に判断しようとする理性との間の断絶が起き、前者を無視しがちになります。そうなると、違和感の抱く感性の奥にある多様性を模索が無視され、多元的・多様的な価値を無視して、結論の一本化するためのロゴスを頼ることになります。こうして詭弁が駆使されるよういなります。違和感を抱く多様性を含んだ感性を黙殺し、ロゴスによって一元的に統合化を図ろうとしてしまうのです。

価値の多元化や多様化のもたらす違和感は、実は表層レベルでの差異に由来します。差異をもたらす深層には、共有可能な世界があります。深層方向に向かって、非言語的な世界、すなわち言葉が立ち現れくる混沌のうちにこそ、根源的な一なる世界が潜在しているからです。

こころの専門家とは誰のことか

専門家と非専門家とが対等の立場でワイワイガヤガヤと相互交流できる時に、もっともよき問題解決策が創発されるものです。

こころのことに関しては、心理学の専門家は、心理学に関しては非専門的な立場にある人のこころの可能性を広げることのできる存在でなければなりません。

こころのことに関しては、専門性の意義とは、心理学の専門家が門外漢外の人に対して、心理学の専知識を感化することにあるわけではありません。

こころのことに関する限り、こころの問題の問題解決の主体は専門家にありません。

こころの問題に関する限り、こころの問題を抱えている人自身が、自らの抱える心的問題に自ら解決していけるように支援できる程度において専門性の意義があるといえます。

こころのことに関する専門家とは、心理学に関しては非専門的であろとうとなかろうよと、その問題を抱える人の問題解決の主体性が回復したり、拡充・強化できる人でなければならいのです。

もっと正確にいうならば、心理学を学ぶ専門家は、こころの問題を抱える人が、自らのこころが問題解決の力をもっていることを信じている人である必要があるのです。  (定森恭司)

心的葛藤とは

内的現実主体の抱く、イメージ、欲求、要求、感情など非言語的な何かが、外我にとってあまりに受け入れ難い時には、外我は内的現実主体に対して受け入れがたい内的現実主体の直接体験の一部に対して防衛的になります。その結果、内的現実主体は、コンプレックスを抱え込むことになります。コンプレックスは、外我が内我に対して行う衛機制である、抑圧、切り離し、否認、反動形成、合理化、投影、分裂・排除によって形成されます。

外我と内我の不一致がコンプレックスをつくりだし心的葛藤となるのです。しかもこの時、心的葛藤自体が否認されると身体的症状にも転換されることもあります。

外我と内我が不一致となると、精神分析や分析心理学では、内的現実主体の抱くコンプレックスの外我への意識化を重視します。しかし、HTでは、意識化そのものよりも、外我と内我の不一致そのものを新たな適切な観察主体から俯瞰することによって、外我と内我のできるだけ一致する方向の模索の方を重視します。外我と内我が一致する方向への早道と思われるならば、場合によっては、コンプレックスそのものを不問に伏すことすらあります。意識化以上に外我と内我の一致を優先するといえます。       (定森恭司)

意識の変化とは

人が罪悪感を感じる時は、これまでの人生の中で取り込んできた道徳観と、今、感じはじめているが、まだ自分なりの価値基準としては十二分には確立してない、未形成の感覚との間で内的な葛藤があるものです。

葛藤とは、これまで取り込んできた古い文化に対して、自分がこれから新しい生き方を模索する上での創造的なぶつかりあいともいえます。この時、両者の間に大きなズレがなければ罪悪感は軽くなり、変容も斬新的な様相となります。しかし、両者の間に大きな溝があると、罪悪感も強くなり矛盾は激しい相剋となって出現し、変容も激しい様相となります。

価値の多様化が急激な時代の中にあっては、人々は生き方の指針をめぐって混乱し、過去に内在化した価値との間で、さまざまな罪悪感に苦悩することになります。古い価値に従おうとすればするほど、どうしても納得しきれない自分自身を処理しきれなくなり苦悩が拡大します。こうした時には、罪悪感をもたらしている古い価値観を見直すために、いったん自分自身から切り離し、心理的な距離をとって、批判的・客観的に俯瞰し、もう一度自分に消化すべきものと排出すべきものを区別してみることをお勧めします。

この時、単純に古い価値を全面否定して、内的な沸き上がる衝動や感覚のままに動けば動いてしまうとただ野獣的となってしまって、周囲の人達との軋轢を高めるだけの結果に終わることが多いので注意が必要です。こうした作業を通じて、“こころ”のより深部に時代の変化に影響を受けないようなより普遍的な価値を再発見し、より浅い層の様々な価値に関しては相対的に捉えなおしていくことを通じてを自分なりの価値を発見・創造することが大切になります。

価値の多様化の中に創造的に生きるということは、多様な価値の存在を受け入れるとともに、自己責任下で自分なりの価値を主体的に創造することいえます。  (定森恭司)

超個的存在の自覚

自己は、有限性と無限性が相矛盾しながら同一にある存在といえます。
自己の有限性は、無限性によって成立しています。

有限性と無限性の関係は、素粒子と波動のような関係といえます。無限なるものが有限的に立ち現れ、また無限になるといえます。無限即有限、有限即無限といえます。色即是空といえます。

絶対無から、絶対有としての宇宙が立ち現れ、絶対有としての宇宙が、相対的な有・無の世界となって立ち現れているのです。絶対無から立ち現れた自己は、絶対無から立ち現れた相対的な有・無を含む存在といえます。したがって、肉体としての身体が無となっても、物質に対しては相対無といえる精神として世界に影響を残すこともできます。

精神は、超個的なものといえます。精神は感じるものとしては確実に有りますが、唯物論的な物質としては有ではありません。精神は有とはいえませんが、物質的に有といえる脳は精神に反応します。
しかも自己が、もともとの絶対無としての自己に回帰するのみという意味では、自己は、何も変わりがない永遠の存在でもあります。自己は、精神的存在の有無に関係なく、もともと超個的存在でもあるのです。
有限的自己が、こうした絶対無といかなる関係をもつのかを意識するかしないかは、自己の生き方に影響することになります。

苦悩の共有可能性

クライエントの抱える心的苦悩を、クライエントの個人的な身に起きたクライエント特有の問題としてしまうのではなく、生きる場を同じくする人々にとって共有可能な問題としても扱っていくことが大切となります。  (定森恭司)

身体の体験過程への焦点化

まだ身体が曖昧なままに感じている直接体験の体験過程に集中すると、過去を含み未来が開けてくる今・この時にうごめいているものが明らかになります。そのうごめきには、緊張・弛緩、不安・安心などの感覚や、情動・感情などを含むすべての体験が渾然一体となっていて、いずれイメージや言葉になっていくもののすべてが含まれています。

しかもこうした体験過程に焦点化していると、そこには人それぞれの独自の自己と世界との関係性のパターンが浮かび上がってきます。

セラピーは、そうしたパターンをめぐって展開され、そのパターンが変容していくこととセラピーの変容とパラレルな関係にあります。  (定森恭司)

夢の統合性

内的現実主体は、自己と世界の出会いの直接体験のさまざまな断片をできるだけ統合的に直覚しようとしますが、しかし、統合しきれない断片がいくらでも残ります。こうした統合されなかった断片的自己は、内的現実主体の統覚性とはまったく無関係に振る舞うことがあります。特に自己の全体に統合されなかった外傷性の直接体験の断片的自己などは、まったく内的現実主体に無関係に振る舞うため、内的現実主体自体を脅かし、外我の統制まで無視する場合もあります。

しかし、そうした時でも、夢の中にでてくる本人(夢の中の本人)以外の様々な強烈なキャラクター(人物・動物等)は、そうした断片を意味していることが多く、もし夢の中の本人との対話等を適切に促進することができれば、内的現実主体がより自己の全体を直覚的に統合化することが可能になります。

また夢の全体には、外我の意識もどこかに含まれていますので、夢はこころの内外の統合化を促す力があるといえます。    (定森恭司)

ユング心理学とホロニカル・セラピー

分析心理学で有名なユングは、意識作用を外的心的事実の意識と内的心的事実に方向づけることができるとし、外的心的諸機能として「感覚」「「思考」「感情」「直観」があるとしました。

しかし、「感覚」と「直観」、「感情」と「思考」の双方の両立は難しく、どちらかが優越機能となる時は、他方が劣等機能となるとしました。

一方、内的心的諸機能としては、「記憶、主観的構成要素、興奮・滲入)があるとしました。これは外的心的世界を光とすると、影にあたる概念として扱われていています。しかも、それは自我の影としても意味づけられています。

ホロニカル・セラピーも意識の働きを2つの方向にわけます。意識の働き手の中心に「我」があるとみて、「外我」と「内我」にわけますが、ユングの区別とは異なります。 外我は、観察主体が観察主体が観察対象をしっかりと区別し、観察対象となる自己および非自己化された世界を観察対象とする時に生起する時の意識の主体とします。

それに対して、内我は、自己と世界の出会いの直接体験をできるだけそのまま直覚しようとする時に生起する意識の主体とみています。

したがって、ユングの外的心的諸機能の直観とか感覚とか感情とも内的現実主体の機機能とし、認知・思考など分別をする時に働くユングの思考は専ら外我の機能と考えています。 また、ユングの心理学では、内的心的諸機能は、外的心的諸機能の影、自我の影(デーモニッシュなもの)という扱いですので、影をとても恐れ・畏怖し、その扱いに慎重となり、その影の意識化が重要テーマになっています。ユングはやはり西洋人であり徹底的に物事の意識化を重視する意識中心主義の立場にあるといえます。

しかしホロニカル・セラピーでは、東洋的な視点、特に禅思想と相似的で、観察主体と観察対象が一致する無境界方向、すなわち無我の方向にあるホロニカル体験の直覚を重視し、不一致の時に出現するデーモニッシュなものの扱いも、意識化というよりもできるだけ不問に付したり、一旦、脇に置くことで、影の出現の沈静、消融を図ろうとします。

自己と世界との不一致をできるだけ意識的に一致させようとするのではなく、自己と世界の一致体験によって、自己と世界の不一致体験が、できるだけ一致する方向への自己変容の可能性を見つけようとする態度といえます。

徹底的な現実主体による直接体験の徹底的意識化によって自己の安定化を図るのでなく、自己が自己自身の自己と世界の出会いの一致の直接体験に身を委ねられる道を目指しているといえます。

ホロニカル体験

ホロニカル体験は、人類学者レヴィーブリュールからユング派が借りてきた概念である神秘的融即と類似的といえます。現代の精神分析でいう投影的同一視のテーマとも深く関係します。自己と何か非自己的な対象と区分がなくなり、相互に浸透しあって、両者を区分できなくなるような主観的体験を意味します。ホロニカル体験から抜け出るためには、ホロニカル体験そのものを内省する意識の働きが必要となります。

ホロニカル体験にはいろいろとあります。自己と身近な他者との間、自己と家族、自己と民族、自己と神など、窮極的には自己と世界との融即体験まで幅と奥行きがあります。

窮極的には、ユングも指摘したように、すべての世界が、一なる世界(ウヌス・ムンドウス)的につながっていきます。現代物理学の描く世界観の、それぞれまったく離れたところにある素粒子たちが、お互いの動きをしってあたかもダンスを踊っているかのごとく相互浸透的調和的に振る舞っている重々無尽の宇宙のイメージと重なり合っていきます。