臨床心理士は、治療者か? それとも相談相手か?

病気、障害や深刻な問題を背負った人と臨床心理士が向き合う時、病気、障害や深刻な問題を、治したり、回復を図ったり、解決をする人として登場するのか、それとも病気、障害や深刻な問題を前にした時、どのように生きれば人生がより生き易くなるのかを、共に模索する人として登場するかは、その後の関係に大きな違いをもたらします。

両者はとても似ていますが、人間関係の捉(とら)え方においてパラダイムが抜本的に違います。こうしたパラダイムの違いを十二分に承知しておかないと混乱することになります。

※心理相談室“こころ”の臨床心理士は、よき相談相手になろうと日々努力しています。

外界を恐怖する人

 外界に恐怖ばかりを感じる人は、外界と触れあい経験をできるだけ回避するような生き方に自ずとなります。その結果、経験の幅が自ずととても狭くなってしまいます。
 外界に恐怖ばかり感じる人は、内界の恐怖感にもても過敏となります。その結果、いつも何かを過剰に警戒し、緊張の絶えない身構えになってしまいます。恐怖感を少しでももたらすものばかりに意識過剰となって、警戒し、恐怖感以外の感情や恐怖の対象以外の他の外界の対象には、ほとんど意識が向かわず視野狭窄的状態に陥ってしまいます。
 また外界に恐怖ばかりを感じる人は、内界と外界の切り離しを図ることがしばしばです。外界と内界ばかりではありません。自己と他己、自己と世界など、あらゆる「内」と「外」の切り離しを図るのです。しかし切り離しておきながら、まったく真逆の心理として、外界と内界、自己と他己、自己と世界の一体化への貪欲な願望を夢想し続けもします。
 通常、外的世界と内的世界は、誰にとっても不一致と一致をいつも繰り返しているものです。だから、両者の不一致が続いたとしても、あきらめず両者の一致点を模索しつづけるほかありません。それに、たとえ一致した瞬間があっても、すぐに再び不一致となるものです。大切なことは、一致・不一致を繰り返すうちに、「外的世界」と「内的世界」のほどよい交流が可能なるような生き方を身につけていくことにあるといえます。
 ところが、外界に恐怖ばかりを感じる人は、「外的世界」と「内的世界」の不一致の恐怖ばかりに“こころ”が全く奪われしまっているのです。そして、「内的世界」を守るために「外的世界」をできるだけ意識から遮断し、外界を回避し、内界にこもってしまうのです。しかしいくら外界の恐怖の対象を遮断したところで、すでに外的世界から内的世界に取りこまれてしまった恐怖は、ひたすら恐怖におののく生き方をもたらすだけになります。
 こうした人たちにとって大切なことは、恐怖以外の“こころ”の気持ちをできるだけ意識できるように支援することです。自力ではなかなかできないだけに、「こっちは?」「「あっちは?」「それ以外には?」「ほらそっちを見てごらん」「ほらこっちを見てごらん」と、恐怖ばかりにとらわれしまっている意識に変化をもたらす周囲の働きかけが大切となります。
 また恐怖におののき絶望的になりながらも、今日の今日まで、ともかくも生き延びてきたレジリエンス(抵抗力、回復力)を周囲の人が尊敬し畏怖することが、外界に恐怖する人たち自らがもっていた内的強さに目覚めるよき契機となります。

相談か?治療か?

症状の治癒や消失を目的として実施される医学的治療や医師の指示下で実施される心理治療と異なり、ホロニカル・セラピーのような心理学に基づく心理相談では、「人間関係とは、男女とは、夫婦とは、家族とは、親子とは、仕事とは、学校とは、生きるとは、自分とは、友情とは、恋愛とは、愛憎とは、苦悩とは・・」といったさまざまな問いについて、カウンセラーが伴走しながら共に整理し見つめ直し作業を行っていきます。

専門家の間でも混乱と混同が見られますが、医療的治療と心理学的相談には根本的な差異があります。治療が、「病気を治療をしてもらうもの」とするならば、相談は、「何らの生き辛さについて自ら相談するもの」といえるのです。
治療は、症状をターゲットとし、症状の治癒や消失を目的とします。したがって、症状の治療や消失を目的として医療機関で実施されている心理治療の場合は、医学的行為に近くなります。それに対して、医療機関以外の場で、生き辛さを中心にさまざまなことを見つめ直そうとする心理相談の場合は、哲学・倫理・宗教・芸術などの創作活動に近いといえます。

治療を求めるならば、エビデンス(科学的根拠にあるもの)があり、副作用も少なく、予後も安全で安心できる科学に基づく医学的治療方法を求めた方がよいでしょう。しかし、心理相談の場合には、カウンセラーに信頼をおけるか、心理相談の場が、安全・安心を得られる場であるか、相談開始当初に比較して、生き易くなっているかについて絶えず自己点検し続けた方がよいといえます。

医療機関以外の場に心理相談を求めるのか、それとも医療機関での医師の治療、または医師の指示下での心理治療を求めるのかは、しっかりと区別した上で判断することが大切です。前者ならば、心理相談室“こころ”のような臨床心理士の資格をもつ心理相談室がふさわしいといえます。しかし、後者の場合だったら、医療機関を受診された方がよいといえます。うつ症状の治癒や消失を目的を求めるならば治療を求め、うつ症状に絡み合ってくる生き辛さを見つめ直すならば相談を求め、両者の並行利用を必要と感じるならば、両者をとりあえず活用してみることが大切になるわけです。

現代社会には、人々が、安全かつ安心して、じっくりと生きる意味を自ら問い直す場が必要となっています。宗教と社会が密接に絡み合いが衰退していく時代にあって、本来ならば、治療の概念をも包摂し、自己や世界のことについて、しっかりと見つめ直すことのできるような場の構築が必要なのだと思われます。 (定森 恭司)

“こころ”の実相と虚相

“こころ”の実相は、絶対無ではないでしょうか。しかし、絶対無としての“こころ”は、それを実感・自覚するものがない限りにおいて、それを語ることも不可能です。

“こころ”は、大乗起信論的表現でいえば、「忽然念起」的に顕れてきます。なんの前触れもなく、その理由や要因も明かでないまま、まずは、突然、動きだしてくるものとして顕れてくるのです。

しかも、立ち顕れてくる窮極的な原初・根源の揺らぎの瞬間においては、すべてが主客未分化で、いずれ揺らぎ自体を認識することになる主体自体も、原初の揺らぎの中に包摂されてしまっています。 ホロニカルセラピーでいう「自己と世界の一致」とは、忽然念起に起きる揺らぎの瞬間の直接体験といえます。

しかしこの瞬間も刹那後には、揺らぎの直接体験自体が対象と途端、認識する主体と認識される対象としての直接体験に二岐します。主客一体の一致が、主体との客体との不一致の関係に変転してしまうのです。しかし、この瞬間に、“こころ”の動きを直感することができるようになります。

本来、言詮不及だった“こころ”が、対象としての“こころ”(直接体験)と、直接体験を認識する主体としての“こころ”に二岐するのです。

認識主体から認識の対象となった直接体験は、あたかもそれが主体とは別の対象世界(客体)であるかのように思い込んでしまいます。認識する主体の意識野に映し出された対象世界が、あたかも客観的な現象世界であるかのように思い込むのです。
こうして作り出された認識の主体は、やがて観察者としての自己となり、観察対象としての自己及び世界のイメージを作りだしていきます。

始原的段階では、観察対象としての自己も世界も渾然一体となっていますが、次第に観察主体と観察対象としての自己と世界との3つに分岐していきます。

東洋的な“こころ”のイメージと、西洋的“こころ”のイメージは、実は、似て非なるものです。西洋の“こころ”の捉え方は、直接体験を認識する観察主体としての働きだけに“こころ”をみているといえます。それに対して、東洋の特に大乗仏教系の“こころ”の捉え方は、主体としての“こころ”という限定を遙かに超えたところにも“こころ”の動きをみているといえます。“こころ”=仏とみる「即心即仏」の捉え方などは、超脱的捉え方の究極といえます。

観察主体は、自己と世界の渾然一体の観察対象としての現象世界に対して、実にさまざまな万物や事象を識別・区別し、人間の場合、渾然一体の対象に対して、無限に名を与えながら現象世界を知ろうとします。生、死・・男・女・・悲しい、嬉しい・・山、川・・、牛、馬・・春・夏・・信頼、法・・仏、神・・・。すべてが自己も世界の区別も識別もなかった“こころ”が、森羅万象の世界に識別された上で再構築されているのです。

しかし、こうした再構築の流れも、徹底的に遡及するならば、すべてが、根源的一だったものが、あたかも縦横無尽に識別されているかのように錯覚していただけであったことに気づきます。 (定森 恭司)

生成生滅の原理について

自己は、遺伝子に代表されるように生命体としての基本点な性質を持つとともに、宇宙開闢以来のさまざまな情報を継承してきています。しかも自己の内には、今・現在、自己が顕在化している性質の以上に、自己の内には、幾多の潜在的な未知の可能性を包含しています。

未知の可能性の中には、必要や状況に応じて、今・現在の私(我、現実主体)の生き方や性質を破壊してでも、潜在的可能性を顕在化させていこうとする自己超越的性質を内包しています。自己とは、今の私(我、現実主体)の維持への関心以上に、自己の中に内包する潜在的可能性を、いかにして外界の世界との出会いの直接体験を通じて自己実現していくかの方に強い関心をもっているのです。したがって、自己が、私(我、現実主体)の生き方に変容を迫ることは、ごく自然な流れであっても、私(我、現実主体)が自己に変容を迫ることは、とても不自然な行為となり、さまざまな症状や苦悩の要因となります。

ところで、遺伝子を含むさまざまな宇宙開闢以来の情報とは、ホロニカル心理学では、H主体(理)に相当します。H主体(理)とは、自己にも世界にも含まれていますが、可視的に見えるようなものではありません。パターン、法則、真理、数学、公理、規範、摂理など、「理」という形でしかその働きが把握できない類いのものです。しかも、ホロニカル心理学では、IT(それ)と呼ぶもの以外の「理」は、すべて絶対的な理とはなり得ず、すべてのH主体は、IT(それ)との一致に向かって変容していくと考えています。

こうした限界があるとはいえ、自己は、世界との出会いの中で、できるだけ世界と一致に向かうH主体を発見・創造しながら自己自身を自己組織化しようとします。

人の場合、自然の摂理のようなH主体(理)ばかりでなく、歴史や文化が含む社会的H主体(理)を含む世界が、自己の自己組織化に関与してきます。そのため自己にとっては、世界とは、自己に無理矢理一致を迫ってくるものとして実感されます。しかし、自己は、自己に制限を迫ってくる世界に対して、自己と世界が一致する方向に、自己自身を変容させようとするばかりでなく、自己にとって世界がより生き易くなるように世界自身を変えていこうと世界にも働きかけます。
通常、人の場合、自然の摂理とともに文化・規範や思想・宗教や倫理的規範などのH主体(理)が、ある一定のパラダイムとなって自己自己組織化を制限してきます。その結果、ある一定のパラダイムに一致する自己自己組織化に対してはH主体(理)は促進的に作用しても、ある基礎のパラダイムと不一致となる自己自己組織化や世界の働きかけに対してはH主体(理)は制限的に作用します。

しかしH主体(理)そのものも歴史的社会的流れの中で変化していきます。そのため数々あるH主体のうち、どれが自己と世界の一致をよりもたらすかは、自己と世界の出会いの場によって異なってくるため、確率論的にある程度予測することはできても、それを完全に予測することは不可能といえます。

こうしてホロニカル心理学やホロニカル・セラピーでは、自己と世界との一致を高めていくようなパラダイムをもたらすH主体(理)の発見・創造がとても重要と考えてします。    (定森恭司)

私という存在の二重性について

ホロニカル心理学では、「私」というものは、有限で代替不可能な唯一の存在であるとともに、無限で自己超越的な存在でもあると考えています。「私とは、ほかならぬ私自身であるとともに、私でもないものでもある」となります。

一般常識的には、「私」という時は、「私が、○○した」「私は、○○したい」というように、「主語となる私」のことです。「我」とか、心理学では「自我」と呼ばれたりして、ホロニカル心理学的では「現実主体」のことといえます。「主語となる私(現実主体)」が、普段の意識活動の中心の担い手といえます。こうした私は、定森恭司というように固有名詞をもつ、世界で、唯一の存在であり、かけがえのない存在といえます。

しかしながら、もう一歩、注意深く検討すると、「主語となる私(現実主体)」を「小さな私」と比喩すると、もっと「大きな私」が「小さな私」の土台としてあることに気づきます。心理学で「自己」と呼ぶものです。

自己という存在があって、その土台の上に、「私」という意識が働いているわけです。

主語となる私(小さな私:現実主体)を馬の騎手として喩えると、自己は馬にあたります。自己は、意識活動の担い手にもなりますが、普段は、無意識や身体的自己を含む存在として動物のようにごく自然に振る舞っている生命的存在でもあるからです。

生き易い生き方とは、騎手と馬が人馬一体となって振る舞うことができます。もし、騎手(小さな私:現実主体)と馬(大きな私:自己)の不一致が続いてばかりいては、とても生き辛い人生になるといえます。
このように人の場合、大きな私(自己)の土台の上で、自己自身を意識することもできる小さな私(現実主体)が活動しているわけです。

しかし、自己自己だけでは存在しません。あまりにあたり前のことですが、自己は世界があって、はじめて生きることのできる存在です。世界がなければ、自己もすべてもありません。自己は、世界が世界自身が万物を産み出す創造的産物として産まれてくる存在といえます。親が子どもを産むというより、世界が万物をはじめとする生命を創造し、生命のつながりの中で親が子を育み、新しい自己が誕生してくるのです。

そして、世界から誕生した自己は、自らを産みだした世界との出会いの中で、自己の死に至るまで、小さな私(現実主体)がいろいろな人生ドラマを展開していくわけです。

小さな主語となる私が産み出すドラマは、他の人々の人生のドラマに大いに影響を与えます。そして数々のドラマの一滴一滴が、大きな川となり、やがて大きな歴史の流れを創りだしているのです。

一見、自己は、世界と分断されている孤独な存在のように思えます。しかし、決して、そうではありません。孤独と感じているのは、主語となっている小さな私の思い違いです。

もともと自己という存在は、世界とのつながりがなくては存在できないからです。先見的に世界とつながっているのです。
特に人の場合、ただ自然の世界に生きているだけではなく、歴史・文化・社会という身体的自己を超えた社会的世界にも生きて存在しているのです。

世界から誕生した自己は、自ずと自らを産んだ世界とできるだけ一致できるような新たな自己を発見・創造しながら生きようとします。小さな私(現実主体)と大きな私(自己)の一致による生き易い人生の発見・創造のためには、自己と世界の一致が必要となるのです。人の場合の自己は、自己自身を変容させようとするばかりでなく、自己と世界(歴史・社会を含む)ができるだけ一致するような新たな世界を発見・創造しようとして世界(歴史・社会を含む)にも働きかけます。

また、世界も、自己や万物に対して、世界と一致するようような、新たな変容を迫ってきます。また自己や万物に変容を迫る世界も、変容を迫った自己を含む万物によって創られいますから、結果的に世界自身も変容を迫られ、新たな世界を創造していくことになります。

最終的には、自己の死によって自己(小さな私を含む)は終焉を迎えます。しかし、自己の死とは、そこから産まれ、そして生きている間ずっと働きかけた世界そのものになることといえます。
このように自己とは、とって替わることの決してできないかけがえのない固有の存在であるとともに、自己超越的存在でもあるといえるのです。    (定森恭司)

無力から抜け出させるもの

自分だけの力では、どうすることもできないという無力感から人を抜け出させるものとは、その人自身の諦めない気持ち以上に、絶望の淵にあっても必死に生きる人々を尊び、その価値を理解する人々の存在ではないでしょうか。

そうした傷つく人を畏怖(いふ)する社会がある限り、誰もが、たとえ自分がいつか絶望の淵にたされても、きっと何かを支えに生きていくことができるという確信を得ることができるように思います。