マインドフルネス

1960年代アメリカ合衆国の西海岸で流行したスピリチュアリティ系の運動や宗教思想でさかんに言われ、最近では認知行動療法の世界で積極的に提唱されている「マインドフルネス」については、ホロニカル・セラピーでは次のように考えます。

マインドフルネスとは、ある違和感をもった直接体験に対して、ホロニカル・セラピーでいう「ただ観察」をすることと同義的です。

「ただ観察」では、先入観や予断をもって観察対象を観察しません。観察対象が自己自身であろうと世界であろうと、あるがままにすべを現象のままに直覚することといえます。
(定森恭司)

瞬間の違和感の増幅・拡充

クライエントが言葉にする前の違和感に焦点化し、その非言語的身体的感覚を増幅・拡充することで、クライエントが日頃強迫的に観察主体と観察対象をめぐって反復している悪循環パターンが明らかになります。身体的違和感とは、自己と世界の不一致の感覚でもあるためです。

クライエントが観察主体と観察対象をめぐる悪循環パターンを実感・自覚すれば、少しでも違和感が減じる方向に向かって観察主体の視点や身構えを変えたり、観察主体と観察対象の関係自体の見直しを図ることが可能となります。

このとき大切なことは、クライエントの抱く不一致感に対して、カウンセラーが徹底的に一致することです。そうすることで、クライエントは自己と世界をめぐる日頃の不一致感をカウンセラーとの間では一致するという相矛盾する体験を同時に実感・自覚することが可能となります。不一致の体験を一致する体験を自己照合の手がかりにして、クライエントは観察主体と観察対象の関係が、少しでも自己と世界の一致する方向に向かって自己を自己組織化することが可能となるのです。 (定森恭司)

自己の多様性と可塑性

自己は、多様性をもった存在です。多彩な顔と声をもっているのです。

しかし多彩な顔と声のある顔や声のいずれかに焦点化すると、焦点化した顔と声だけがとても意識されてクローズアップされてきます。その結果、他の顔や声は、自己の背景に沈潜していきます。その結果、ある顔と声に焦点化する前の自己と、ある顔と声に焦点化した後の自己の間には、微妙な差異が起きてきます。

例えば、人が絶叫するとき、怒りという感情に焦点化すれば怒りの感情ばかりが湧出してきます。しかし、怒りの感情を一旦“こころ”の脇に置くような感じで自己と向きあえば、悲しみの感情が溢れてくる場合もあります。もし、怒りの感情を抱く自己の底の奥に悲しみの感情もあることに気づくと、怒り一辺倒のときの気持ちとは微妙変化してきまます。さらに、もし悲しみの感情を“こころ”の脇に置いて自己と向きあえば、空しい感情が込み上げてくる場合があります。するとさらに複雑な気持ちに変化していきます。

このように自己とは、私たちが想像している以上に、私たちが何に意識をやるかでもって変化するような可塑性をもった存在なのです。 (定森恭司)

現実とは?

現実とは、既に発見・創造されたものと、未だ発見・創造されていないものから成り立ています。いま、この瞬間に、過去が含まれ、そして未来が開かれていくのです。 (定森恭司)

複雑化する高次なH主体

ホロニカル主体は、主観的な個人の意識の中にあるのではなく、また抽象的な観念の中にあるのでもなく、人と人の間の対話の場から発見・創造されてくるものとしてあります。

そして低次なホロニカル主体を含むような高次なホロニカル主体になればなるほど、多面的で相矛盾する複雑なものを包含するものとなります。

究極的なホロニカル主体とは、人と人の間をも含む窮極の場において、あらゆるホロニカル主体を創発するものといえます。 (定森恭司)

心理相談の創発性

治療や教育は真理をよく知る者とされる者が、知らざる者に対して教え導く行為になりがちです。しかも、あらかじめ定められた理性的で合理的に決められているひとつの結論に導かれていきます。

それに対してホロニカル・セラピーのような心理相談では、個人内の意識の中ではなく、実際の生活世界を生き抜くにあたっての多様多彩な意見との対話を通じて、いまだ未完結で未決定な新しい道を発見・創造していく展開となっていきます。 (定森恭司)

存在と意識の唯一性について

存在の唯一性と意識の唯一性は区別されなければならない。存在は唯一性を有するが、その存在を 対象として識別する意識は重々無尽にあり得りえます。しかし、意識が存在を対象とするのではなく、存在そのものと一体になる時に、初めて意識は唯一性を獲得することができます。 (定森恭司)

写真に撮れる世界と撮れない世界

内的世界と外的世界の区分をちゃんとつけられるようになっていくことはとても大切です。両者の間に一線を引けるようになった上で、両者が一致することを求めることも大切になります。生きる道の手がかりを求めて内的世界だけにモノローグ的になると、内的世界はますます外的世界から遠のき、内的世界への没入状態かた外的世界に踊ることがとても困難になります。といって外的世界ばかりに生きる手がかりを求めばかりいても空疎な幻しかありません。

外的世界は写真に撮ることのできやすい可視化可能な世界ですが、内的世界そのものは誰も写真に撮ることのできない不可視の世界といえます。前者は観察主体と観察対象が切り離された観察主体優位な世界ですが、後者は観察主体と観察対象が触れあい自己と世界が一致しやすい世界といえます。 (定森恭司)

H主体について

H主体は、人格形成の原理になるとともに、世界観形成の原理にもなります。それだけに心的危機などを通じて古いH主体から新しいH主体に変化する時には莫大なエネルギーが必要となります。

この時、新しいH主体の発見・創造が、外発的な圧力で起きるのか、それとも内発的な圧力から起きるのかは、大きな違いをもたらします。外部から持たされる時は、外我が内我を支配・コントロールする形を取りますので、内我は自己主張的であることは外我の内在化したH主体の理に反しない限りにおいて許されます。しかし、そのような生き方では、真に自立した生き方とはいえません。真に自立的に生きるためには、自己と世界の出会いの直接体験を直覚する内我との対話が必要となります。自己と世界の不一致が一致する方向の直接体験の直覚に基づいて外我が新しいH主体を発見・創造する時、より適切な人格形成と世界観の形成が可能となります。 (定森恭司)

無限の俯瞰

ひとりの人のある苦悩には、その人のミクロからマクロにわたる多層多元な問題がホロニカル的に含まれています。したがって、ある人のある苦悩の原因を、個人の病理や社会の病理の問題に帰属したり、神経・生物学的な問題などある次元や、意識的な認知の歪みなどある意識の層の問題に帰属させてしまうことは、とても危険な行為となります。

解明していく必要のあることは、ある次元ある層の問題が、他のよりミクロからマクロに至る次元や層の問題といかに複雑に絡み合っているかを無限の俯瞰によって根気よく、かつしっかりと見定めていくような謙虚な姿勢が大切となります。 (定森恭司)