真理の発見・創造

人生の意味のある生きた真理とは、デカルト依頼成立した自己を抜きした客観的な普遍的な近代科学的法則として発見されるようなものではく、自己の体験として発見・創造されるようなものでなければなりません。そうでないと、ただの知的で形式的で抽象的な一つの知識にしか役にたたず、もしそうした無機質的な知識を真理と錯覚すると人生はとても空虚なものとなってしまいます。

生きた意味のある真理は自己と世界の出会いの直接体験の中から発見・創造されるのです。 定森恭司

私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。
定森恭司

孤独な人生を分かち合う

人は誰もが、自分の人生の孤独と向き合って生きるしかありません。しかし、こうした人生の悲哀を、分かち合うことのできる仲間をもっていることも大切です。

自分の人生を誰かと取り替えることができないという個別性が、極めて個人的色彩の強い人生の物語を創り出します。しかし、他方では、誰もが、生まれた世界に向かって死にゆくということにおいて全く平等で公平な人生の物語を逃れることはできません。

しかしこうした人生の孤独と共通性を何気なく感じることのできる者同士が、人生の仲間となることができます。

人生を共に生きる仲間を得ると、人は自ずと、自分と他人の狭間や内的世界と外的世界の狭間に苦悩しながらも、ほどよい距離感をもった人生を生き抜くことができるようになります。 定森恭司

自殺願望について

「死にたい」という語りは、あたかも内なる私(内的現実主体)からわき上がる気持ちのように聞こえますが、実はそうではありません。そこには、自分で自分自身を否定するような不適切な価値観の影響が必ずあるものです。

ホロニカル・アプローチの視点からは、死にたいと語る人には、内なる私(内的現実主体)を観察している私(外我)の物事の見方の枠組みの中に、内なる私(内我=内的現実主体)を否定する価値観があることが明らかになります。私自身を観察する私の物の見方の中に、不適切な価値観(H主体:理)が内在化しているため、内なる私(内的現実主体)が否定され死にたくなってしまうのです。

本来、内なる私(内我=内的現実主体)は、刻々生成消滅を繰り返す自己と世界の出会いの直接体験を生命として自然に実感する存在です。ところがこうした自然な直接体験を体感する筈の内なる私(内我=内的現実主体)も、観察主体となる私(外我)から徹底的に否定されてしまうと、世界との生々しい接点を失ってしまいます。世界との生き生きとした接点を失った自己は、あたかも虚空に投げ出されたかのようなものです。こうなってしまうと、何んらかの助けがないと、どんどんブラックホールのような心の暗闇に引きずり込まれていってしまうのです。

大切なことは、内なる私の存在を否定するような間違った理(不適切なH主体:理)から徹底的に内なる私(内的現実主体)を守ることです。また自己と世界の接点の生命の躍動を内なる私(内我=内的現実主体)が直覚できるように支援することといえます。

理によって人は生きているのではありません。人には生きるための理の発見と創造が大切なのです。
定森恭司

2つの文化(常識)のぶつかりあい

①お互い様の文化
お互いがあたかも相手の悩みを自分のことのように感じながら悩みを分かち合い、お互いの心の痛みを察しあうことで支えあう文化。これを「お互い様の文化」とします。

②私中心の文化
「お互い様の文化」とは異なり、自分と他人の悩みは異なり、かつ個人的なものなので、お互いの関係はあくまで独立的であり、お互いの内面まではあまり踏み込まず、プライバシーを大切にして、相互の独立と自尊心を尊重し重視しようとする文化。これを「私中心の文化」とします。

現代は、①と②の文化による生き方が激しくぶつかりあっている時代といえます。特に、いまどきの日本人は、欧米化の文化の強い影響があって表層的には②の影響を強く受けてながらも、その一方では、①の生き方の影響を心の深層領域で根強く形成しながら育っています。しかも①と②では、価値観や常識が異なり、簡単にはひとつにはなりません。その結果、多くの人たちは①と②の常識のねじれ現象に遭遇して苦労しています。特に、個人としての生き方と公的な生き方をめぐる対立・混乱が激化しています。

時代の流れは、だいだい②に向かってきています。しかし、②の文化だけでは、人と人の関係があまりに無縁的社会になってきています。しかしだからといって、昔の①の時代に戻ってしまえば、集団や場ばかりが重視されて個が生かされなくなってしまいます。

大切なことは、個々の人々が、自分常識が他の人と異なることを自覚しながらも共存の生き方を模索し続けることを諦めないことと思われます。

世界の中で唯一かけがえのない存在として生きながらも、一方では、自己超越的な世界から誕生し、その世界としての一員としても生きている自己超越的存在としての存在に目覚めながら生きていくようなあり方が求められているといえます。
                                定森恭司

地縁・血縁・人の縁

先日、札幌で、北海道在住の同世代のご夫婦と一緒にジンギスカンを食べました。その方々は北海道は地縁・血縁が薄いので、住みやすいと言ってみえました。ではお二人は孤立しているかというと、そうではなくて、とてもお知り合いが多いとききました。多分仕事なりボランティアなり、何かを一緒にした、あるいは世話をした・されたといった、直接のかかわりを通しての「知り合い」ではないかと思います。こうしてできた「知り合い」は、地域・親族と言った抽象的な「縁」ではなく、「私」が直接関わって、いい人だな、信頼出来る人だなと感じた人と主体的に「縁」をつないでできたものかとおもいます。いわば、顔のみえる「人の縁」とでもいえるのではないでしょうか。

「地縁・血縁」には良い面、悪い面あるかと思いますが、主体的に結んだわけでもない、しかも顔のみえない人達との、義務の多い「縁」に、息苦しさを感じてしまうということも多々あるかと思います。

一方で、最近は「地縁・血縁」が薄くなったと嘆く方も多いでしょうが、どんな「縁」(地縁・血縁・社縁・知縁・・)であれ、それが有用なものとなるとすれば、そこには必ず、直接的な顔のみえる「人の縁」があるはずです。

この場のような、主体的な、心地よい、気楽な「人の縁」づくりを大切にしていきたい、と、ジンギスカンを食べ終わった後のデザートのソフトクリーム食べながら思いました。

                                定森露子