“こころ”の実相と虚相

“こころ”の実相は、絶対無ではないでしょうか。しかし、絶対無としての“こころ”は、それを実感・自覚するものがない限りにおいて、それを語ることも不可能です。

“こころ”は、大乗起信論的表現でいえば、「忽然念起」的に顕れてきます。なんの前触れもなく、その理由や要因も明かでないまま、まずは、突然、動きだしてくるものとして顕れてくるのです。

しかも、立ち顕れてくる窮極的な原初・根源の揺らぎの瞬間においては、すべてが主客未分化で、いずれ揺らぎ自体を認識することになる主体自体も、原初の揺らぎの中に包摂されてしまっています。 ホロニカルセラピーでいう「自己と世界の一致」とは、忽然念起に起きる揺らぎの瞬間の直接体験といえます。

しかしこの瞬間も刹那後には、揺らぎの直接体験自体が対象と途端、認識する主体と認識される対象としての直接体験に二岐します。主客一体の一致が、主体との客体との不一致の関係に変転してしまうのです。しかし、この瞬間に、“こころ”の動きを直感することができるようになります。

本来、言詮不及だった“こころ”が、対象としての“こころ”(直接体験)と、直接体験を認識する主体としての“こころ”に二岐するのです。

認識主体から認識の対象となった直接体験は、あたかもそれが主体とは別の対象世界(客体)であるかのように思い込んでしまいます。認識する主体の意識野に映し出された対象世界が、あたかも客観的な現象世界であるかのように思い込むのです。
こうして作り出された認識の主体は、やがて観察者としての自己となり、観察対象としての自己及び世界のイメージを作りだしていきます。

始原的段階では、観察対象としての自己も世界も渾然一体となっていますが、次第に観察主体と観察対象としての自己と世界との3つに分岐していきます。

東洋的な“こころ”のイメージと、西洋的“こころ”のイメージは、実は、似て非なるものです。西洋の“こころ”の捉え方は、直接体験を認識する観察主体としての働きだけに“こころ”をみているといえます。それに対して、東洋の特に大乗仏教系の“こころ”の捉え方は、主体としての“こころ”という限定を遙かに超えたところにも“こころ”の動きをみているといえます。“こころ”=仏とみる「即心即仏」の捉え方などは、超脱的捉え方の究極といえます。

観察主体は、自己と世界の渾然一体の観察対象としての現象世界に対して、実にさまざまな万物や事象を識別・区別し、人間の場合、渾然一体の対象に対して、無限に名を与えながら現象世界を知ろうとします。生、死・・男・女・・悲しい、嬉しい・・山、川・・、牛、馬・・春・夏・・信頼、法・・仏、神・・・。すべてが自己も世界の区別も識別もなかった“こころ”が、森羅万象の世界に識別された上で再構築されているのです。

しかし、こうした再構築の流れも、徹底的に遡及するならば、すべてが、根源的一だったものが、あたかも縦横無尽に識別されているかのように錯覚していただけであったことに気づきます。 (定森 恭司)