やっかいな“こころ”

“こころ”のことを、科学的、哲学的、理論的に考えようとする時、忘れがちになってしまう重要問題があります。

実は、“こころ”を観察対象とした途端、“こころ”は観察する側と観察対象となるさ側に別れてしまうということです。分離されているとき、観察しようとする私(主体)は、あたかもこの世の世界から離れた別世界にいるかのような存在になっています。しかし、実際には、それは錯覚です。“こころ”を観察しようとする私が、世界の外側にいることは、観察しようとする私そのものが世界の内に存在し生きている限り不可能なことです。

しかし、じゃあ、今度は、観察しようとしている私を含んで、“こころ”のことを考察しようとしても、じゃあ、今度俯瞰しようとする私をどのようにするかというやっかいな問題がどうしても残ってしまいます。結局、“こころ”の現象では、“こころ”を観察しようとした途端、“こころ”のことを把握しようとする私と“こころ”そのものとが分離してしまうというやっかいな問題があるのです。

このやっかいな問題は、“こころ”の問題を考える時、さらに次のような問題を引き起こします。観察しようとする私が、一体、“こころ”の問題に何を発見しようとするかで、“こころ”の問題の次元そのものまで変化してしまうということです。“こころ”の問題に、感情の問題を発見しようとすれば、“こころ”の問題と感情とのつながりがいろいろと発見できます。また、“こころ”の問題に、物事の理解の仕方のような認知と言われるような働きの問題をみつけようとすれば、“こころ”の問題と認知の歪みのつながりを発見できます。また、“こころ”の問題に、脳の機能不全を見ようとする人は、そこに生物・神経学的働きと“こころ”の問題のつながりを発見することができます。また、“こころ”の問題に、社会・文化の影響などを見つけようとすれば、これもまた発見できるのです。

このように、“こころ”の問題を考える時、観察しようとする人が、どのような姿勢で何を発見しようとするという構えそのものが、“こころ”の現象に影響してしまうのです。“こころ”の考察や“こころ”の問題は、ニュートン力学のように普遍法則化できず、観察主体(私)と観察対象(“こころ”)の関係を抜きに語ることはできないといえます。 (定森恭司)