命にあらためて気づくとき

0121 私という意識(我)は、重篤な身体的病気を患っていないときでも、人生の生きづらさ、生活のしづらさに絶望的になります。しかし、そんな苦悩の絶頂にあっても、そのことにはまったく無関心であるかのように、血の通う身体は、ただひたすら生きることに向かって働き続けます。

一見、我の所有物にみえがちの身体も、元々、我を超えたもっと脈々と受け継ぎ流れてきた命の営みを受け継いで活動しているといえます。だからこそ、いくら我の意識が絶望的になっても、身体は、ひたすら生きることを常にめざし続けるといえます。

生きるとは、生まれた時から死ぬときまで、きっと個人的な苦悩を超越した意味をもっているのでしょう。そして、生命のつながりから生まれた私(我を含む自己)という存在は、最初から私の意識(我)だけのものではないことを、身体的自己の方がよく熟知しているのでしょう。

身体はそうした生命の智慧の宝庫なのでしょう。むしろ私という意識(我)の方が、あまりに当たり前のこうした生命の智慧から離れてしまい、頭でっかちな精神的世界の煩悩に迷い込んでしまうといえます。   (定森恭司)