子どもと大人の時間

小さな子どもは、団子虫を、なぜにあんなにも簡単にみつけられるのでしょうか?

どうも、大人が道を歩く時は、ほとんど目の前の景色以外の何かに“こころ”が奪われているからのようです。景色以外のことに“こころ”を奪われているのです。しかも、歩く行為と同じように半ば自動的・無意識的に“こころ”が何かに奪われてしまうのです。大人は、ただ歩いているつもりで、無意識的世界のわだかまりと知らず知らずのうちに対話をしているのです。「間に合うかな?」「早すぎるかな?」「行きたくないなあ」「早くあいたいなあ」とか、まったく関係のないことなどに思いをはせてしまうのです。こうした時は、外界より、内界に意識がとらわれているといえます。穏やかな太陽の日差しが肌にふりそそいでいたとしても、すずめが「チュッ、チュッ」とさえずりながら羽ばたいていても、まったく“こころ”の耳には届いていないのです。全ては内界に“こころ”を奪われているのです。こうした心持ちでは、当然のこととして団子虫はみつからないのです。

大人に比べて、子どもの“こころ”は自由無礙です。いや、自我がまだ未熟であるからこそ、外界と内界の世界の境界線は弱く、“こころ”は自由におもむくままといえます。子どもは、一瞬一瞬を生きることが大人より得意といえるのです。特に時間的観念から自由であり、空間的刺激に敏感に応答するのです。

皮肉なことですが、大人になるということは、子どものような一瞬一瞬に生きることが不得意になることのようです。大人は、時間的空間的な制約から自由になろうとすると、かなり意識的な努力をする必要があります。何もかも忘れて旅をする。山里に廃屋を買って、そこで都会生活から離れて自炊する。花見に行く。そうした努力の果てで、うまくすると一瞬の偶然の出来事のなかに“こころ”の自由を見い出すのです。なんと大人とは、境界のない世界、内界や外界のみにとらわれない世界、無垢な“こころ”の世界を見いだすのに苦慮していることでしょう。     (定森恭司)