真の自己に向かって生きる

060 一般的にいって、「私」が、私について語る時、あたかも私のことを知っているかのよう人は語りますが、実は実際には、「私は私のことを知らない」といえます。なぜならば、「私」が私自身について語る時には、どうしても「知る私」と「知られる私」が分離してしまうからです。このことは、「知る私」について知ろうとしたところで同じです。「知る私」と「知る私を知ろうとする私」の分離はどうしてもまぬがれません。この作業はいくら繰り返しても同じです。どこまでいっても「知る」ものと「知られるもの」の分離が無限に続くだけです。ここに人が物事を知識として知ることにおける限界があるといえます。人が知ることができるのは、せいぜい観察対象の限られた部分だけで、そのものの全体とは決してならないわけです。意識的な主体である私が、いくら自己と世界を観察対象として知って生きようとしても、そうした人生の歩みだけでは自ずと限界がやってきます。

むしろ真の自己や世界に目覚めた生き方のためには、観察主体と観察対象の区分をなくすことにあります。自分が知りたい対象である自己や世界と一体化すること、すなわち無心になることにあるといえます。自己も世界も、ただあるがままの実在として、ただそのままに直接的に体験する時こそ、そこには自己と世界の区分や境界のない真の自己/世界が自覚されます。仏教用語でいえば「無分別智」「悟り」といえます。

しかしながら、普通、人は、無心のまま生きていることはいくらでもありますが、無心の境地の自覚のまま生きることは難しいものです。一般の人は、何かを意識した途端に、観察主体としての私が生まれ、自己と世界からすぐに分離してしまうからです。

しかしよくよく考えてみれば、人はこの主体と対象の分離による悩みがあるからこそ、無心の時だった時を、あとで知ることはできます。

したがって、自己と世界の不一致に絶えず悩みながらでも、ほんの少しでも自己と世界が一致した時の体験に向かって、自己を整えながら生きることが、真の自己に向かって生きることになると思われます。            (定森恭司)