私という存在の二重性について

ホロニカル心理学では、「私」というものは、有限で代替不可能な唯一の存在であるとともに、無限で自己超越的な存在でもあると考えています。「私とは、ほかならぬ私自身であるとともに、私でもないものでもある」となります。

一般常識的には、「私」という時は、「私が、○○した」「私は、○○したい」というように、「主語となる私」のことです。「我」とか、心理学では「自我」と呼ばれたりして、ホロニカル心理学的では「現実主体」のことといえます。「主語となる私(現実主体)」が、普段の意識活動の中心の担い手といえます。こうした私は、定森恭司というように固有名詞をもつ、世界で、唯一の存在であり、かけがえのない存在といえます。

しかしながら、もう一歩、注意深く検討すると、「主語となる私(現実主体)」を「小さな私」と比喩すると、もっと「大きな私」が「小さな私」の土台としてあることに気づきます。心理学で「自己」と呼ぶものです。

自己という存在があって、その土台の上に、「私」という意識が働いているわけです。

主語となる私(小さな私:現実主体)を馬の騎手として喩えると、自己は馬にあたります。自己は、意識活動の担い手にもなりますが、普段は、無意識や身体的自己を含む存在として動物のようにごく自然に振る舞っている生命的存在でもあるからです。

生き易い生き方とは、騎手と馬が人馬一体となって振る舞うことができます。もし、騎手(小さな私:現実主体)と馬(大きな私:自己)の不一致が続いてばかりいては、とても生き辛い人生になるといえます。
このように人の場合、大きな私(自己)の土台の上で、自己自身を意識することもできる小さな私(現実主体)が活動しているわけです。

しかし、自己自己だけでは存在しません。あまりにあたり前のことですが、自己は世界があって、はじめて生きることのできる存在です。世界がなければ、自己もすべてもありません。自己は、世界が世界自身が万物を産み出す創造的産物として産まれてくる存在といえます。親が子どもを産むというより、世界が万物をはじめとする生命を創造し、生命のつながりの中で親が子を育み、新しい自己が誕生してくるのです。

そして、世界から誕生した自己は、自らを産みだした世界との出会いの中で、自己の死に至るまで、小さな私(現実主体)がいろいろな人生ドラマを展開していくわけです。

小さな主語となる私が産み出すドラマは、他の人々の人生のドラマに大いに影響を与えます。そして数々のドラマの一滴一滴が、大きな川となり、やがて大きな歴史の流れを創りだしているのです。

一見、自己は、世界と分断されている孤独な存在のように思えます。しかし、決して、そうではありません。孤独と感じているのは、主語となっている小さな私の思い違いです。

もともと自己という存在は、世界とのつながりがなくては存在できないからです。先見的に世界とつながっているのです。
特に人の場合、ただ自然の世界に生きているだけではなく、歴史・文化・社会という身体的自己を超えた社会的世界にも生きて存在しているのです。

世界から誕生した自己は、自ずと自らを産んだ世界とできるだけ一致できるような新たな自己を発見・創造しながら生きようとします。小さな私(現実主体)と大きな私(自己)の一致による生き易い人生の発見・創造のためには、自己と世界の一致が必要となるのです。人の場合の自己は、自己自身を変容させようとするばかりでなく、自己と世界(歴史・社会を含む)ができるだけ一致するような新たな世界を発見・創造しようとして世界(歴史・社会を含む)にも働きかけます。

また、世界も、自己や万物に対して、世界と一致するようような、新たな変容を迫ってきます。また自己や万物に変容を迫る世界も、変容を迫った自己を含む万物によって創られいますから、結果的に世界自身も変容を迫られ、新たな世界を創造していくことになります。

最終的には、自己の死によって自己(小さな私を含む)は終焉を迎えます。しかし、自己の死とは、そこから産まれ、そして生きている間ずっと働きかけた世界そのものになることといえます。
このように自己とは、とって替わることの決してできないかけがえのない固有の存在であるとともに、自己超越的存在でもあるといえるのです。    (定森恭司)