自己と世界の一致と不一致

世界から誕生した「私」という存在は、瞬間、瞬間、「私」を産みだした世界自身に包まれて生きつつ、いずれ死んで世界自身と一体化していきます。

そして世界の中に生きる私は、世界の中に何かを感じながら、また何かを理解しながら生きています。

この時、「私」という存在ではなく、「私」という意識について、ちょっと考えてみると次のようなことに気づきます。

「私」とは、何かを感じたり、何かを理解したりする時に、その背景にいるいつも必ずいるような何かを意識している主体のようなものといえます。「我思う故に我あり」の「我」が「私」の意識にあたります。こうした「私」という意識があって、「私」という存在にもはじめて気づくことができるわけです。

しかし、この私という意識は、何かに無心になっている時に、すなわち「我を忘れている時」には、私という意識はなかったといえます。

無心の時とは、私と世界の関係が無境界的になってひとつになっています。私と世界の触れあいによる純粋な経験だけといえます。ホロニカル・心理学やホロニカル・セラピーでは、「直接体験」と呼んでいます。無心の時とは、直接体験そのものの時といえます。あるがままの時といえます。

しかし、無心の時以外は、すぐに、私という主体的な意識が、何かを見つけて、それを感じたり、それを他のものから区別しています。その結果が、私が観察の主体となって、何かを観察対象としているという関係を作り出しています。この時、私の意識の立場からすると、観察対象となるのは、世界ばかりでなく、私自身(自己)も観察対象になります。

何かを観察する時とは、観察対象となる世界は、私という観察主体の意識からは切り離されています。観察主体の私の意識が、私の意識以外を観察対象とするという関係になるわけです。しかし、こうした時には、世界と無境界という感覚はまったくありません。世界は私の意識とは切り離された私とは関係のない世界となってしまうのです。私と世界の関係が切断され、切り離されてしまいます。

また、私にとっては、観察対象となるのは世界ばかりではありません。私自身も観察対象となります。このことは、次のことをしてみると自覚できます。

まず手を合わせて合掌のポーズをとり、右手と左手のひら同士が触れあっているところを、何も考えないで、じっくりと落ち着いて感じてみてください。次に両手を離して、右の手のひら、左の手のひらをそれぞれ交互に眺めてみてください。

前者では、観察する私の意識は、両手の触れているところに一点集中していきます。その結果、観察する私が一体化し直接体験そのものになる方向といえます。一方、両手を開いて、左右の手のひらを観察する時は、私が、手のひらを観察対象として見ているという感じになります。私の意識が、世界から手を区別して、手という物を私が見ているという関係になります。この時、観察している私の意識は頭の中にあり、観察対象となっている物としての手との間には境界(空間的間)があります。

このようにして、私という存在(自己)は、無心になって、私と世界がすべて一体となって、ただ直接体験そのものとなっていても、何かを意識した途端、私という意識が主体となり、私自身や世界が客体となって2分されてしまうのです。こうしたことは、瞬時・瞬時に繰り返えされているのです。

私自身という存在を、私という意識と区別して自己と言いかえると、私は、自己と世界との一致・不一致を絶え間なく繰り返しているということになります。走っている馬を無心になって感動している瞬間と、そのことを、「私は、走っている馬を見た」という瞬間は刹那の違いといえます。こうした刹那の差異が、自己と世界の関係の一致と不一致をもたらしているのです。

そして、とても大切なことは、私という意識は、自己と世界と不一致になった時に生起するものであって、不一致でない時には、生起していないということです。私という存在は、普段、まったく意識されない時には、「無い」のです。しかし、何かを私の意識が区別して意識した時には、意識する私が、即座に点灯する光のようなものとして「有る」ように立ち現れくるのです。

ホロニカル心理学やホロニカル・セラピーでは、自己と世界の一致の瞬間の直接体験を大切にします。そして、自己と世界の不一致の直接体験が土台となって、自己と世界ができるだけ一致する方向に自己自身を変容させていくと考えています。私という意識が、自己と世界の関係ができるだけ一致することが増えるようになる方向に人生を歩むことが、生き易い人生を発見・創造することと考えます。

走っている馬に無心になって感動した体験が先にあって、「私、馬が走っているのをみてとても感動した」と語れるようになるような生き方が大切と考えており、「走っている馬をみて感動しようとしても無理」と考えるわけです。西田幾多郎という哲学者がいっているように、「私があって経験しているのでなく、経験があって私がある」といえます。「感じるところを考えることが大切」なのであって、「いくら考えていても感じることはできない」といえます。

観察する私の意識が、観察対象となる私自身(自己)と世界との間で、不一致ばかりが続くような生き方は苦悩ばかりの人生となります。しかし、自己と世界の不一致に苦悩しつつも、自己と世界の一致の瞬間を、より多くでも直接体験として経験できるような生き方ならば、より幸せな方向に向かって生きることが可能となると考えているわけです。
(定森 恭司)