いろいろな私


「私(我)」って一体なんだろうとは、誰もが一度は考えるものです。

「我思う、故に我あり」の「我」も、「私」についての有名な哲学者デカルトの言葉です。

デカルトという人は、世の中のあるゆるものについて、それが本当にあるかどうかを徹底的に疑ってみた時、間違いなくあるのは、「疑っている我」だと発見したというのです。しかし、こうした「私」は、普段、「私は、○○です」と語ってる時の「私」のイメージとは異なり、「私は、○○です」と感じたり、考えたりしている私自身に気づく「私」といえます。「私」を観察の対象として「観察している私」のことを指しています。

そこでよくよく、こうした2つの私を想定した時、私たちは普段、「自分って駄目だな」「自分って本当馬鹿だな」「私ってつくづく○○が好きだな」などと、「観察する私」と「観察される私」が無意識のうちに対話しながら生きているといえます。

ところが、最近、いい意味での2つの私の生き生きとした対話と交流が失われ、「自分は駄目だ」「自分は馬鹿だ」などと観察する私が、ただ一方的に観察される私のことを批判・批評ばかりしている人たちが増えてきているような気がします。

(定森恭司)

臨床心理士は、治療者か? それとも相談相手か?

病気、障害や深刻な問題を背負った人と臨床心理士が向き合う時、病気、障害や深刻な問題を、治したり、回復を図ったり、解決をする人として登場するのか、それとも病気、障害や深刻な問題を前にした時、どのように生きれば人生がより生き易くなるのかを、共に模索する人として登場するかは、その後の関係に大きな違いをもたらします。

両者はとても似ていますが、人間関係の捉(とら)え方においてパラダイムが抜本的に違います。こうしたパラダイムの違いを十二分に承知しておかないと混乱することになります。

※心理相談室“こころ”の臨床心理士は、よき相談相手になろうと日々努力しています。