主体(私=現実主体)とは

自己と世界の出会いの直接体験をどのように表現するかというところに、その人の自己と世界の関わり方に関する主体的特徴が現れてきます。

例えば、歩くことについて考えてみます。

「私は歩いている」と表現するか、「歩いている私」と表現するか、「今思えば、ただ歩いていました」と表現するか、「私は歩くしかない」と表現するか、歩くことによって刻々変化する世界と私との関係の意味づけがまったく異なっているのです。

こうした考察を徹底していくと、実は、主体とは、絶えず状況と目的に応じて、その都度その都度ことなる主体が創り出されてくるものであることがわかります。

「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人ある」と語り、主体的存在の恒常性や固定性を否定し、非連続的連続性を明らかにしてきた西田哲学も同じような視点にあるといえます。主体(私)とは、いつも「在る」ものではなく、瞬間・瞬間、忽然と立ち合われては、忽ちまちのうちに消えていくようなものと捉えられいるのです。こうした主体の捉え方の差異こそが、主体(私)の表現の仕方の違いにそのままつながっているわけです。

私という主体(ホロニカル心理学では現実主体と呼びます)には、「どうやって生きるかは責任をもって自分で決めなさい」というトーンが含まれています。しかし、実際には、誰ひとり、世界や生活環境の状況にまったく関係なく、自分の意志だけで物事を決定しているということなどありえません。しかし、だからといって、運命は私の意志にはまったく関係なく世界によって決定されてしまっているわけでもありません。

主体性とは、自己と世界の出会の多様な意味を含んだ体験から、自己と世界のある面を瞬間・瞬間に語りだそうとするところに創りだされてくるものといえるのではないでしょうか?

宮澤賢治は、「春と修羅の序」の中で、「私」というものを電灯に比喩しました。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈のひとつの青い照明です

実は、私という主体は、一般的に思われているような恒常的な存在でも固定的な存在でもなく、瞬間・瞬間に創出、瞬間瞬間に消えてさっていくような明滅を繰り返しているようなものと思われます。

状況・状況に応じて非連続的に主体が立ち現れきてきますが、その都度立ち現れる主体には、これまでの非連続体験が経験が包含されながら立ち現れてきてるわけです。こうした非連続的直接体験の連続体験の累積の中で、その人なりの自己と世界の出会いに関する特徴的パターンのが形成されているのです。

こうした自己と世界の関わりの特徴的パターンは、その人の語り方の差異となって表現されてくるのです。先の「歩く」ことに関する表現の差異がその具体例です。語り方とは、主体の述語の関係や表現の仕方の違いといえるのです。

ホロニカル・アプローチでは、こうした表現の違いを、主語・述語関係に、自己と世界の関係をめぐっての観察主体と観察対象の関係が相同的パターンとして現れくると考えています。

主語と述語の表現の仕方に、ホロニカル心理学でいう外我と内我に関する発達段階的特徴に関するパターンが発見されます。このパターンをクライエントとカウンセラーが共に共有し、もし悪循環パターンが発見されれば、より生き易い生き方のパターンを協働しながら共同研究的に模索するというアプローチをとっているのです。
定森恭司

真理の発見・創造

人生の意味のある生きた真理とは、デカルト依頼成立した自己を抜きした客観的な普遍的な近代科学的法則として発見されるようなものではく、自己の体験として発見・創造されるようなものでなければなりません。そうでないと、ただの知的で形式的で抽象的な一つの知識にしか役にたたず、もしそうした無機質的な知識を真理と錯覚すると人生はとても空虚なものとなってしまいます。

生きた意味のある真理は自己と世界の出会いの直接体験の中から発見・創造されるのです。 定森恭司

私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。
定森恭司

孤独な人生を分かち合う

人は誰もが、自分の人生の孤独と向き合って生きるしかありません。しかし、こうした人生の悲哀を、分かち合うことのできる仲間をもっていることも大切です。

自分の人生を誰かと取り替えることができないという個別性が、極めて個人的色彩の強い人生の物語を創り出します。しかし、他方では、誰もが、生まれた世界に向かって死にゆくということにおいて全く平等で公平な人生の物語を逃れることはできません。

しかしこうした人生の孤独と共通性を何気なく感じることのできる者同士が、人生の仲間となることができます。

人生を共に生きる仲間を得ると、人は自ずと、自分と他人の狭間や内的世界と外的世界の狭間に苦悩しながらも、ほどよい距離感をもった人生を生き抜くことができるようになります。 定森恭司

自殺願望について

「死にたい」という語りは、あたかも内なる私(内的現実主体)からわき上がる気持ちのように聞こえますが、実はそうではありません。そこには、自分で自分自身を否定するような不適切な価値観の影響が必ずあるものです。

ホロニカル・アプローチの視点からは、死にたいと語る人には、内なる私(内的現実主体)を観察している私(外我)の物事の見方の枠組みの中に、内なる私(内我=内的現実主体)を否定する価値観があることが明らかになります。私自身を観察する私の物の見方の中に、不適切な価値観(H主体:理)が内在化しているため、内なる私(内的現実主体)が否定され死にたくなってしまうのです。

本来、内なる私(内我=内的現実主体)は、刻々生成消滅を繰り返す自己と世界の出会いの直接体験を生命として自然に実感する存在です。ところがこうした自然な直接体験を体感する筈の内なる私(内我=内的現実主体)も、観察主体となる私(外我)から徹底的に否定されてしまうと、世界との生々しい接点を失ってしまいます。世界との生き生きとした接点を失った自己は、あたかも虚空に投げ出されたかのようなものです。こうなってしまうと、何んらかの助けがないと、どんどんブラックホールのような心の暗闇に引きずり込まれていってしまうのです。

大切なことは、内なる私の存在を否定するような間違った理(不適切なH主体:理)から徹底的に内なる私(内的現実主体)を守ることです。また自己と世界の接点の生命の躍動を内なる私(内我=内的現実主体)が直覚できるように支援することといえます。

理によって人は生きているのではありません。人には生きるための理の発見と創造が大切なのです。
定森恭司

マインドフルネス

1960年代アメリカ合衆国の西海岸で流行したスピリチュアリティ系の運動や宗教思想でさかんに言われ、最近では認知行動療法の世界で積極的に提唱されている「マインドフルネス」については、ホロニカル・セラピーでは次のように考えます。

マインドフルネスとは、ある違和感をもった直接体験に対して、ホロニカル・セラピーでいう「ただ観察」をすることと同義的です。

「ただ観察」では、先入観や予断をもって観察対象を観察しません。観察対象が自己自身であろうと世界であろうと、あるがままにすべを現象のままに直覚することといえます。
(定森恭司)

瞬間の違和感の増幅・拡充

クライエントが言葉にする前の違和感に焦点化し、その非言語的身体的感覚を増幅・拡充することで、クライエントが日頃強迫的に観察主体と観察対象をめぐって反復している悪循環パターンが明らかになります。身体的違和感とは、自己と世界の不一致の感覚でもあるためです。

クライエントが観察主体と観察対象をめぐる悪循環パターンを実感・自覚すれば、少しでも違和感が減じる方向に向かって観察主体の視点や身構えを変えたり、観察主体と観察対象の関係自体の見直しを図ることが可能となります。

このとき大切なことは、クライエントの抱く不一致感に対して、カウンセラーが徹底的に一致することです。そうすることで、クライエントは自己と世界をめぐる日頃の不一致感をカウンセラーとの間では一致するという相矛盾する体験を同時に実感・自覚することが可能となります。不一致の体験を一致する体験を自己照合の手がかりにして、クライエントは観察主体と観察対象の関係が、少しでも自己と世界の一致する方向に向かって自己を自己組織化することが可能となるのです。 (定森恭司)

自己の多様性と可塑性

自己は、多様性をもった存在です。多彩な顔と声をもっているのです。

しかし多彩な顔と声のある顔や声のいずれかに焦点化すると、焦点化した顔と声だけがとても意識されてクローズアップされてきます。その結果、他の顔や声は、自己の背景に沈潜していきます。その結果、ある顔と声に焦点化する前の自己と、ある顔と声に焦点化した後の自己の間には、微妙な差異が起きてきます。

例えば、人が絶叫するとき、怒りという感情に焦点化すれば怒りの感情ばかりが湧出してきます。しかし、怒りの感情を一旦“こころ”の脇に置くような感じで自己と向きあえば、悲しみの感情が溢れてくる場合もあります。もし、怒りの感情を抱く自己の底の奥に悲しみの感情もあることに気づくと、怒り一辺倒のときの気持ちとは微妙変化してきまます。さらに、もし悲しみの感情を“こころ”の脇に置いて自己と向きあえば、空しい感情が込み上げてくる場合があります。するとさらに複雑な気持ちに変化していきます。

このように自己とは、私たちが想像している以上に、私たちが何に意識をやるかでもって変化するような可塑性をもった存在なのです。 (定森恭司)

現実とは?

現実とは、既に発見・創造されたものと、未だ発見・創造されていないものから成り立ています。いま、この瞬間に、過去が含まれ、そして未来が開かれていくのです。 (定森恭司)

複雑化する高次なH主体

ホロニカル主体は、主観的な個人の意識の中にあるのではなく、また抽象的な観念の中にあるのでもなく、人と人の間の対話の場から発見・創造されてくるものとしてあります。

そして低次なホロニカル主体を含むような高次なホロニカル主体になればなるほど、多面的で相矛盾する複雑なものを包含するものとなります。

究極的なホロニカル主体とは、人と人の間をも含む窮極の場において、あらゆるホロニカル主体を創発するものといえます。 (定森恭司)