意識と物質

意識と物質の2種類があるのではなく、森羅万象はすべて心的性質と物質的性質という一見すると相対立しているようなものが、実は不可分同一なものとしてに立ち顕れているというとらえ方があります。

“こころ”というものと付き合いながら長年研究し続けてくると、「やっぱりそうだなあ」という実感が強まってきています。

この実感が強まってくると、私たちは、むしろ心的なものと物質的なものを分けて考えることによって、本来のあるがままの世界をとらえ損ねているのではないかという考えに変化していきます。

(定森恭司)

自覚のための参照枠

自覚とは、「○○について意識し腑に落ちること」です。

したがって、自覚のためには、必ず「意識するもの」と「意識されるもの」の関係が介在します。

この時、「意識するもの」は自己ですが、意識する自己によって、「意識されるもの」には、「自己(自身)」と「世界」があります。

人間の場合、乳児期の意識には「自己」と「世界」の関係は未分化で混沌としていますが、発達とともに「自己」と「非自己化された世界」の間に境界ができて、両者が区別されながら「意識するもの」によって意識されるようになります。

自己は、「自己」と「世界」を意識の対象として意識するようになると、「自己」についての意識化を通じて自己自身についての自覚を深めるとともに、「自己が存在する世界」についての意識化を通じて世界についても自覚を深めることができます。そして、ついには、「自己と世界の関係」についての自覚も深めることができるわけです。

自覚について考える時、注意しなければならないことがあります。「意識するもの」が自覚を深めるための根拠をどこに求めるかです。

自覚のための根拠は、実在するものに求められなければなりません。実在するものに根拠を求めず、ただ考えだされた論理や空想を根拠にした時は、ただの妄信といえます。

実在するものとは、自己と世界の瞬間・瞬間の出会の直接体験といえます。瞬間・瞬間の直接体験が実在するもののすべてを包摂しているのです。

自己は、「自己」と「世界」がせめぎあいながらも「自己」と「世界」が同一にある直接体験を通じて、自己自身と世界が確かに存在すると実感しているのです。

「自己」と「世界」が時々刻々と生成消滅を繰り返している場所に、自己と世界が確実に実在しているのです。自己は直接体験を通じて、この事実を実感し自覚することが可能なのです。

こうした理由から、自覚の根拠は直接体験の実感に求めなければならないといえるのです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づくものでなくてはなりません。

(定森恭司)

神から自我へ 自我から自己へ

西洋は神から自我への覚醒が歴史をつくった。しかしこれからは、自我から自己への覚醒の歴史をつくる必要ある。

この点、もともと東洋は無我が自己であり、無我から自我を確立していくことが歴史をつくった。しかしこれからは、自我から再び自己を回復する歴史をつくる必要がある。
 
自我から自己の覚醒の課題を背負っているのが西洋で、自我から自己を回復する課題を背負っているのが東洋の課題といえる。 

(定森恭司)

存在と意識の唯一性について

存在の唯一性と意識の唯一性は区別されなければならない。存在は唯一性を有するが、その存在を 対象として識別する意識は重々無尽にあり得りえます。しかし、意識が存在を対象とするのではなく、存在そのものと一体になる時に、初めて意識は唯一性を獲得することができます。

(定森恭司)