2つの心理学

心理学には、2つの心理学の立場があるように思われます。
このことを「あるバラの花」のことで考えてみます。

今、AさんとBさんの目の前に、赤いバラの花があります。
この時、Aさんの目の前にあるバラも、Bさんの目の前にある赤いバラも同じバラ科バラ属の花を見ていると考える心理学の立場が成立します。

しかし、この立場とは異なる心理学も成立します。
Aさんと、Bさんの受け取り方には、まったく違う気持ちが湧いていることに注目するわけす。実は、Aさんにとっては、目の前の赤いバラの花は、甘酸っぱいに香りに誘惑され是非部屋の中に飾りたいバラの花です。ところが、Bさんはにとっては、二度に見たくないバラの花なのです。なぜならば、かってバラの花束でもって大好きな女性に求婚をしたものの見事に失恋した花だからです。

このように2人にとっては、同じバラの花を見てはいても、まったく意味の異なるバラの花の世界に生きていることを重視するところに心理学を成立させようとするわけです。

前者の立場は、できるだけ主観的なものを排して、客観的な科学的立場から人の心理の普遍的原理を発見していこうとします。それに対して、後者の立場は、主観的なところにひとりひとり異なる“こころ”を解明しようとする心理学が成立するわけです。

でも、大切なことは、どちらも大切にすることのできる心理学を打ち立てることだと思いますが、いかがでしょうか?               
                               定森恭司
 

心理相談の創発性

治療や教育は真理をよく知る者とされる者が、知らざる者に対して教え導く行為になりがちです。しかも、あらかじめ定められた理性的で合理的に決められているひとつの結論に導かれていきます。

それに対してホロニカル・セラピーのような心理相談では、個人内の意識の中ではなく、実際の生活世界を生き抜くにあたっての多様多彩な意見との対話を通じて、いまだ未完結で未決定な新しい道を発見・創造していく展開となっていきます。 (定森恭司)

心理相談

ホロニカルセラピーのような心理相談では、カウンセラーがクライエントの内的世界について、クライエント以上に物知りのかのように解釈したり分析するはあまり重視されません。 それよりもクライエント自身にとって新たな内的世界た外的世界を発見・創造していくようなクライエントとカウンセラーの対話が重視されます。 (定森恭司)

臨床心理士は、治療者か? それとも相談相手か?

病気、障害や深刻な問題を背負った人と臨床心理士が向き合う時、病気、障害や深刻な問題を、治したり、回復を図ったり、解決をする人として登場するのか、それとも病気、障害や深刻な問題を前にした時、どのように生きれば人生がより生き易くなるのかを、共に模索する人として登場するかは、その後の関係に大きな違いをもたらします。

両者はとても似ていますが、人間関係の捉(とら)え方においてパラダイムが抜本的に違います。こうしたパラダイムの違いを十二分に承知しておかないと混乱することになります。

※心理相談室“こころ”の臨床心理士は、よき相談相手になろうと日々努力しています。

相談か?治療か?

症状の治癒や消失を目的として実施される医学的治療や医師の指示下で実施される心理治療と異なり、ホロニカル・セラピーのような心理学に基づく心理相談では、「人間関係とは、男女とは、夫婦とは、家族とは、親子とは、仕事とは、学校とは、生きるとは、自分とは、友情とは、恋愛とは、愛憎とは、苦悩とは・・」といったさまざまな問いについて、カウンセラーが伴走しながら共に整理し見つめ直し作業を行っていきます。

専門家の間でも混乱と混同が見られますが、医療的治療と心理学的相談には根本的な差異があります。治療が、「病気を治療をしてもらうもの」とするならば、相談は、「何らの生き辛さについて自ら相談するもの」といえるのです。
治療は、症状をターゲットとし、症状の治癒や消失を目的とします。したがって、症状の治療や消失を目的として医療機関で実施されている心理治療の場合は、医学的行為に近くなります。それに対して、医療機関以外の場で、生き辛さを中心にさまざまなことを見つめ直そうとする心理相談の場合は、哲学・倫理・宗教・芸術などの創作活動に近いといえます。

治療を求めるならば、エビデンス(科学的根拠にあるもの)があり、副作用も少なく、予後も安全で安心できる科学に基づく医学的治療方法を求めた方がよいでしょう。しかし、心理相談の場合には、カウンセラーに信頼をおけるか、心理相談の場が、安全・安心を得られる場であるか、相談開始当初に比較して、生き易くなっているかについて絶えず自己点検し続けた方がよいといえます。

医療機関以外の場に心理相談を求めるのか、それとも医療機関での医師の治療、または医師の指示下での心理治療を求めるのかは、しっかりと区別した上で判断することが大切です。前者ならば、心理相談室“こころ”のような臨床心理士の資格をもつ心理相談室がふさわしいといえます。しかし、後者の場合だったら、医療機関を受診された方がよいといえます。うつ症状の治癒や消失を目的を求めるならば治療を求め、うつ症状に絡み合ってくる生き辛さを見つめ直すならば相談を求め、両者の並行利用を必要と感じるならば、両者をとりあえず活用してみることが大切になるわけです。

現代社会には、人々が、安全かつ安心して、じっくりと生きる意味を自ら問い直す場が必要となっています。宗教と社会が密接に絡み合いが衰退していく時代にあって、本来ならば、治療の概念をも包摂し、自己や世界のことについて、しっかりと見つめ直すことのできるような場の構築が必要なのだと思われます。 (定森 恭司)

心的葛藤とは

内的現実主体の抱く、イメージ、欲求、要求、感情など非言語的な何かが、外我にとってあまりに受け入れ難い時には、外我は内的現実主体に対して受け入れがたい内的現実主体の直接体験の一部に対して防衛的になります。その結果、内的現実主体は、コンプレックスを抱え込むことになります。コンプレックスは、外我が内我に対して行う衛機制である、抑圧、切り離し、否認、反動形成、合理化、投影、分裂・排除によって形成されます。

外我と内我の不一致がコンプレックスをつくりだし心的葛藤となるのです。しかもこの時、心的葛藤自体が否認されると身体的症状にも転換されることもあります。

外我と内我が不一致となると、精神分析や分析心理学では、内的現実主体の抱くコンプレックスの外我への意識化を重視します。しかし、HTでは、意識化そのものよりも、外我と内我の不一致そのものを新たな適切な観察主体から俯瞰することによって、外我と内我のできるだけ一致する方向の模索の方を重視します。外我と内我が一致する方向への早道と思われるならば、場合によっては、コンプレックスそのものを不問に伏すことすらあります。意識化以上に外我と内我の一致を優先するといえます。       (定森恭司)

心理相談室こころの心理相談(2)

心理相談室“こころ”の心理相談(カウンセリング、心理療法を含む)とは、来談された方が自分の人生の主人公になれるように援助するものです。そのためには苦悩や症状と向き合いつつも、苦悩や症状が和らぐような新しい生き方を自ら発見・創造していこうとする気構えが必要となります。求められる姿勢は、苦悩を消し去ろうとすることでもなく、コントロールすることでもありません。苦悩する自己(心身)自身と向き合いながらながら、自ずと見えてくるまだ慣れていない新しい生き方と共に歩む覚悟が必要となります。

この作業は、喜怒哀楽を超え、生きて死んでいく存在の意味を味わう作業となります。 仏や神に向きあうように、自分自身の人生と向き合う作業といえます。しかし、この作業を、ただひとりで行うことは、とても難しいため、同行人としてカウンセラーがいるわけです。  (定森恭司)

心理相談室こころの心理相談(1)

心理相談室こころでは、心理治療という概念を使用せず、カウンセリングやセラピーを含んで「心理相談」と表現します。それには理由があります。一般的にいって、「相談はするもの」に対して、「治療は受けるもの」と主体性のとらえ方に重大な差異があると考えるからです。心理相談の究極的主体者はクライエント自身であり、カウンセラーはクライエントが安全かつ安心して自己及び世界について自ら見つめ直す場を設営する立場にあるととらえているからです。

心理相談室こころでは、個人や家族に対するカウンセリング・心理療法にしても、個人病理や家族病理を治療するという視点からでなく、生き辛さを感じている個人や家族自らが、より生きやすい道を発見・創造していくことを支援していくために個別心理療法や家族療法を活用するという立場に立ちます。 (定森恭司)

心理相談とは その3

心の現象を脳の神経生理学的反応とし、その反応の現象をよりミクロ化し、その反応を引き起こす対象の物質をより厳密に定義し、その定義した対象の生化学的反応の特徴を明確に測定し、その反応をコントロールする薬を開発して投与すれば、定義された症状の消失ないし変容をはかることは今後とも可能となります。眠れない人が薬で眠れるようにもなるでしょう。幻覚妄想に効果のある薬も開発されるでしょう。もっと気分をあげる薬も開発されるでしょう。しかし、薬によって生化学的反応に変化が起きることと、人生がこれまで以上に意味のある生き生きとしたものとなるかどうかが別の次元であることを忘れてはなりません。これまでの生き辛さが、真により生き易い人生として創造され発見されたかは、気分の変容も十分影響するが、気分だけの問題でないことは明かです。

不安を引き起こす生化学的レベルの研究を進め、薬物治療によって不安を消去ないし減じることをする薬物治療の考え方は生物精神医学上の不安の扱いです。それに対して、不安を心理学的に捉える時には、不安を除去するとか、無くすというのは馴染みません。むしろ、不安によって生き辛くなっている人生が、どのようにすればより生きやすくなるかという道を探すことが目的となります。このように臨床心理行為は医行為とはまったく異なる行為といえます。

その意味では、心理相談とは、クライエントが医療に関わっていようが、宗教に関わっていようが、自己及び世界のことについて見つめなおし、よりよき人生を再発見・創造したいという人なら、誰にも門戸が開かれているところといえます。   (定森恭司)

心理相談とは その2

生化学的作用が心の現象の成因に深く関わっている。しかし一般の人が関心があるのは、心の現象の成因以上に心の現象の意味にあるといえます。成因と意味ではまったく語る次元が異なります。心の複雑な現象の意味は、生化学的反応では説明できません。意味は、民族、哲学、思想、芸術、宗教、信条、信念など歴史・文化などのテーマを抜きには語れません。人は生きる意味を問う存在です。末期癌と知れば、どう生きて死ぬのかといった実存的な意味のテーマと直面するのが世の常です。

しかしながら昨今、心の現象に対して、複雑な現象や特殊な事情を考慮することをできるだけ排除し、世界共通の物差しとなる診断基準や生化学的反応によって複雑な心の現象を説明していく流れが強くなっています。うつ病や発達障害、統合失調症など精神医学領域においても統一的な診断基準の活用や脳の生化学的反応や遺伝子領域の研究ばかりが際だつようになってきています。こうした流れは、医療産業化の流れとも呼応しています。

今日の薬剤の開発は、あたかも心の病は薬を活用すれば、すべてなんとかなるとの錯覚すら一部の人にもたらしています。脳の働きや生化学的な考え方ばかりが強調されると、複雑な心の現象の捉え方そのものが、すべて生化学的反応こそが重要だとの考え方に行き着いてしまうのでしょう。しかしそうなると、心的苦悩のすべてがあたかも個人の病理のように捉える誤った風潮が高まり、薬ばかりに過度に依存し、気分は変わっても、悩みには変容がないというおかしな現象が起きてしまいます。心に関して、医療は万能ではない。医療は、医療以外の視点をもちながら活用する時、もっとも効果をもたらすものであることを忘れてはならないでしょう。      (定森恭司)