わくわく どきどき はらはら

某TV番組で、年を取ると時間のたつのが早いのは、わくわくすることが減るからだと言ってました。たしかにそうかもしれない。「こんなこと、前にもあったな」「○○の方がきれいだったね」などなど、どこかで過去をもちだしてきたりして、今の感動にひたれない。また、意地悪されたり、大きなミスをしたり、試験勉強に追い立てられたりといった、マイナスなことも減り、それはそれで平安かもしれないが、どきどき・はらはら感はない。

どうしたってこの先の方が短いのだから、できるだけ時間の速度を遅くしていきたい。「いつだって今」という感覚を持つようにしたり、嫌なこと、苦しいことも拒否せず、私の時間の速度を緩めてくれるものと考えたりしていきたいものです。
  定森露子

*写真は インド・タラブックスの本より 「虎」 

行ってみないとわからない

**写真は阿寒湖の夕日

今日、ついに名古屋は40度超えた!
「暑」という字すらみたくないので、涼しい話を。

先日、北海道に行ってきました。野付半島、根室、霧多布湿原、釧路、阿寒とまわりましたが、前日までの名古屋が暑すぎて、少し涼しいかもとは思ってはいても思いが至らず、用意した着替えでは涼しすぎて、寒かったです。久しぶりに楽に呼吸ができました。気温が低いだけではなく、空が広く、人や建物の少なさも涼しい気分にさせてくれていたようです。

北海道も外国観光客が増えたという話しもありますが、私が行ったところはどこも日本人、外国人ともに少なくて、個人的にはよかったのですが、地元経済からすると、もう少し多くの人にきてほしいかなとおもっているのでは。夏だけ道東に住むという人も増えているとかききます。いいねえ。食べ物安いし、おいしいし。

野付半島のネイチャーセンターでホタテバーガーセットを頼むときに、300にしますか?500にしますか?ときかれ、咄嗟になんのことかわからなかったけど、セットの牛乳のことでした。牛乳500も飲むのか?このあたりの人は?やっぱり行ってみないとわからないこと多いな。今は釧路に住む名古屋育ちの姪が、「夕方になると寒いけどがんばって半袖着てる。そうでないと、半袖着れないし」って言ってました。羨ましい。

  定森露子

花火を見てきました

熱田まつりの花火をみてきました。間近で花火を見たのは、10何年ぶりのこと。体に音を感じながら頭の上の光の花に包まれるのは、やっぱりいいなあとつくづく思いました。が、ここ何年も「花火を見に行くことは、とにかく疲れる」と言う過去のいくつかの体験から、行こうという気持ちがおこりませんでした。「よかったな~」と感動したことも多々あったはずなんだけど、なぜか「花火大会=疲れる」ができあがってしまっていたよう。

熱田まつりの花火は、40分ほど前に行っても、まあまあ良い場所が確保でき、帰りの地下鉄の駅に入りきれない人が溢れる、といったこともなくて、来年も行ってもみようかなと思えたのはよかった。ただ、やはりというか、制服きた高校生(平日なので)や社会人1年生?といった、きらきらした若い子達や2人の世界浸りきっているカップルたちもたくさん来てて、エネルギーに満ちた時空でした。
ひとつの夜空の花火に、沢山の人が、「わあ!」と同じ思いで見上げてるって、あらためてすごい平和だなと思いました。

花火は格段に進化していて、感動しました。昔の嫌な記憶に引きずられて避けてきたことに、ちょっと後悔。

当日の花火の写真を載せたいのですが、うまく撮れませんでした。代わりに、みなさん自分の記憶にある感動した花火をここで思い出してくださると嬉しいです。

  定森露子

We are not alorn in the world

これは、我が家で30年以上使っているバケツにかかれている言葉です。
息子が1歳半で保育園に行く時に、保育園でのオムツ入れとして亡き父が買ってくれたものです。当時は布おむつなので、使用済みオムツは個別に保管していました。ほどなく保育園での用はなくなり、家でつかうことになりました。

ここ20年くらいは、お風呂場においてあります。
子どもたちのみならず、家族全員が英語でかかれたこの言葉をずっと間近にみていたことになります。今更ですが、こんな優しい言葉と絵に見守られていたんだなと、感慨深いものがあります。これが例えば、「がんばることが、人生だ」とか「甘えるな」だったりしたら、また違った影響があったかもしれなません。どちらがいいかはわかりませんが、お風呂にはいりながら見るものとしては、これでよかったと思います。

定森露子

心理学


人間の苦悩や悲哀の意味を問うのが哲学とするならば、いかにすれば救われるかを扱うのが宗教だといえます。

そこで、もし心理学は、人間の苦悩や悲哀にどう向き合うのですかと問われたならば、「人間の苦悩や悲哀の意味を問い、かつ、どのようにすれば救われるかを発見・創造していく学問です」といいたいところですが、まだまだ歴史が浅すぎて、哲学や宗教から学ぶべきものが多いと思います。
           定森恭司
 

努力する

西表島12/25

努力することは大切であるとは思う。が、何にたいして、何のために努力するかを考えてみた。とはいえ、「これからの時間」が「これまでの時間」に比べて格段に少なくなった今の私が考えたことであって、「これからの時間」が限りなくあると思っている若い人(私はそうだった)には何言ってんだろうと思うだろうな。

 

すくない時間を、それに加えて乏しくなってきたエネルギーを、過去のいやなことを消すための努力に使うよりは、あるいは、これから先の何かのための努力につかうより、もう少し「今」に使いたいなと思う。ただ「今」と言ったって、「今・この瞬間」に生きるなんてことは高僧でもない凡人の私が出来るわけもなく、せいぜい「今日1日」か「2~3日先まで」の間のことなんだけど、気持ちよく、楽しくすごすことに、もう少し努力してみようかと思う。

定森露子

紅葉ベスト3


10年ほど前に当時教えていた学生に、「私の中の紅葉ベスト3」を伝えたことがあります。10月でどこか紅葉を見に行きたくてうずうずしていた頃です。
  1位 白神山地   2位 天生峠   3位 せせらぎ街道

いづれも、きれいにしつらえられた庭園ではなく、複雑な、自然の山の紅葉です。ベスト3はさしたる下調べもせずに、だから予想も期待もさほどせずに行ったのですが、とくに白神山地・天生峠はあまりのきれいさと雄大さとで怖くなってしまいました。自然は恐い、と心底思いました。

今年秋、3位のせせらぎ街道にいってきましたが、前に行った時ほどはきれいではなかった気がしました。土地の人が「今年は10月に台風が2度きて、多くの葉を散らせてしまって、例年ほどきれいではないです。」といってました。
やっぱり自然は、勝手な人間の思うようには動いてはくれないものだなあと、思い知らされました。またところどころすごくきれいなところもありましたが、前ほど感動しなかった気がします。感動を得ようと思って行っても、感動はしないものかもしれないと、思いました。

「予想外の・・」「思ってもみない・・・」「突然の・・」が、良きにつけ、悪しきにつけ、心に深く刻まれるようです。
 
定森露子

旅の思い出

人はなぜ旅行するのか?

「思い出づくり」と言う方も多いでしょうが、それを言うのも若いうちではないかと思います。私ももっと若い頃、とくに子どもを連れてあちこちと行ってたときは、そんな気持ちも大きかったです。しかし、子ども達は、何処に行ったとか、どんなところに泊まったとか、ほとんど覚えてないと言うし、多少覚えていたところがあっても、こちらはそこは覚えてなくて、お互い「そうだったの!」行ったときは楽しそうにしてたような気がしてたが・・・                       

ここ数年は、夫婦であちらこちら行くようになってきましたが、「去年のGW何処行ったっけ?」「確か11月どこかいったよね~」みたいな会話が多く、思い出そうとしても思い出せず、もはや「思い出」は旅行先においてきてしまうようになったようです。

なぜ旅行するか。今にして思うに、行ったときに楽しい時を過ごすかどうかだけだと思えてきます。思い出に浸るとか、思い出話に花をさかすということはできません。思い出は旅先に置いてきてしまっているいるので。

こころ穏やかに生きるためには、「その時を生きる」「今を生きる」とかよくいわれますが、私のように年をとってきて覚えてることが減ってくると、自然に「今を生きる」しかなくなってきて、これはこれで、いい生き方かもしれませんね。

写真は白根山の湯釜。50年近く前に友人と湯釜を一周した記憶がありますが、まぼろしかもしれません。 ( 定森露子)

歩くとは?

同じ出来事でもどのように表現するかによって、その人の主体性についてのイメージが知らずのうちにあらわれきまます。

例えば、歩くことについて考えてみます。 「私は歩いている」と表現するか、「歩いている私」と表現するか、「今思えば、ただ歩いていました」と表現するか、「私は歩くしかない」と表現するかで、私という主体の捉え方の微妙な違いが表現されてくるのです。

※主体についてのホロニカル心理学的考察については、<「こころの不思議」の「私とは><「ホロニカル心理学雑感」の「現実主体」>の「主体(私=現実主体)」を参照ください。

真理の発見・創造

人生の意味のある生きた真理とは、デカルト依頼成立した自己を抜きした客観的な普遍的な近代科学的法則として発見されるようなものではく、自己の体験として発見・創造されるようなものでなければなりません。そうでないと、ただの知的で形式的で抽象的な一つの知識にしか役にたたず、もしそうした無機質的な知識を真理と錯覚すると人生はとても空虚なものとなってしまいます。

生きた意味のある真理は自己と世界の出会いの直接体験の中から発見・創造されるのです。 定森恭司