旅の思い出

人はなぜ旅行するのか?

「思い出づくり」と言う方も多いでしょうが、それを言うのも若いうちではないかと思います。私ももっと若い頃、とくに子どもを連れてあちこちと行ってたときは、そんな気持ちも大きかったです。しかし、子ども達は、何処に行ったとか、どんなところに泊まったとか、ほとんど覚えてないと言うし、多少覚えていたところがあっても、こちらはそこは覚えてなくて、お互い「そうだったの!」行ったときは楽しそうにしてたような気がしてたが・・・                       

ここ数年は、夫婦であちらこちら行くようになってきましたが、「去年のGW何処行ったっけ?」「確か11月どこかいったよね~」みたいな会話が多く、思い出そうとしても思い出せず、もはや「思い出」は旅行先においてきてしまうようになったようです。

なぜ旅行するか。今にして思うに、行ったときに楽しい時を過ごすかどうかだけだと思えてきます。思い出に浸るとか、思い出話に花をさかすということはできません。思い出は旅先に置いてきてしまっているいるので。

こころ穏やかに生きるためには、「その時を生きる」「今を生きる」とかよくいわれますが、私のように年をとってきて覚えてることが減ってくると、自然に「今を生きる」しかなくなってきて、これはこれで、いい生き方かもしれませんね。

写真は白根山の湯釜。50年近く前に友人と湯釜を一周した記憶がありますが、まぼろしかもしれません。 ( 定森露子)

歩くとは?

同じ出来事でもどのように表現するかによって、その人の主体性についてのイメージが知らずのうちにあらわれきまます。

例えば、歩くことについて考えてみます。 「私は歩いている」と表現するか、「歩いている私」と表現するか、「今思えば、ただ歩いていました」と表現するか、「私は歩くしかない」と表現するかで、私という主体の捉え方の微妙な違いが表現されてくるのです。

※主体についてのホロニカル心理学的考察については、<「こころの不思議」の「私とは><「ホロニカル心理学雑感」の「現実主体」>の「主体(私=現実主体)」を参照ください。

真理の発見・創造

人生の意味のある生きた真理とは、デカルト依頼成立した自己を抜きした客観的な普遍的な近代科学的法則として発見されるようなものではく、自己の体験として発見・創造されるようなものでなければなりません。そうでないと、ただの知的で形式的で抽象的な一つの知識にしか役にたたず、もしそうした無機質的な知識を真理と錯覚すると人生はとても空虚なものとなってしまいます。

生きた意味のある真理は自己と世界の出会いの直接体験の中から発見・創造されるのです。 定森恭司

私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。
定森恭司

地縁・血縁・人の縁

先日、札幌で、北海道在住の同世代のご夫婦と一緒にジンギスカンを食べました。その方々は北海道は地縁・血縁が薄いので、住みやすいと言ってみえました。ではお二人は孤立しているかというと、そうではなくて、とてもお知り合いが多いとききました。多分仕事なりボランティアなり、何かを一緒にした、あるいは世話をした・されたといった、直接のかかわりを通しての「知り合い」ではないかと思います。こうしてできた「知り合い」は、地域・親族と言った抽象的な「縁」ではなく、「私」が直接関わって、いい人だな、信頼出来る人だなと感じた人と主体的に「縁」をつないでできたものかとおもいます。いわば、顔のみえる「人の縁」とでもいえるのではないでしょうか。

「地縁・血縁」には良い面、悪い面あるかと思いますが、主体的に結んだわけでもない、しかも顔のみえない人達との、義務の多い「縁」に、息苦しさを感じてしまうということも多々あるかと思います。

一方で、最近は「地縁・血縁」が薄くなったと嘆く方も多いでしょうが、どんな「縁」(地縁・血縁・社縁・知縁・・)であれ、それが有用なものとなるとすれば、そこには必ず、直接的な顔のみえる「人の縁」があるはずです。

この場のような、主体的な、心地よい、気楽な「人の縁」づくりを大切にしていきたい、と、ジンギスカンを食べ終わった後のデザートのソフトクリーム食べながら思いました。

                                定森露子

2つの心理学

心理学には、2つの心理学の立場があるように思われます。
このことを「あるバラの花」のことで考えてみます。

今、AさんとBさんの目の前に、赤いバラの花があります。
この時、Aさんの目の前にあるバラも、Bさんの目の前にある赤いバラも同じバラ科バラ属の花を見ていると考える心理学の立場が成立します。

しかし、この立場とは異なる心理学も成立します。
Aさんと、Bさんの受け取り方には、まったく違う気持ちが湧いていることに注目するわけす。実は、Aさんにとっては、目の前の赤いバラの花は、甘酸っぱいに香りに誘惑され是非部屋の中に飾りたいバラの花です。ところが、Bさんはにとっては、二度に見たくないバラの花なのです。なぜならば、かってバラの花束でもって大好きな女性に求婚をしたものの見事に失恋した花だからです。

このように2人にとっては、同じバラの花を見てはいても、まったく意味の異なるバラの花の世界に生きていることを重視するところに心理学を成立させようとするわけです。

前者の立場は、できるだけ主観的なものを排して、客観的な科学的立場から人の心理の普遍的原理を発見していこうとします。それに対して、後者の立場は、主観的なところにひとりひとり異なる“こころ”を解明しようとする心理学が成立するわけです。

でも、大切なことは、どちらも大切にすることのできる心理学を打ち立てることだと思いますが、いかがでしょうか?               
                               定森恭司
 

「常識」と「常識」の戦いのいくえ

「私」の中には数限りない常識がある。しかしほとんどは意識することなく(身体に染みついているもの)、日々暮らしている。自分と違う常識に出会って始めて、自分にある常識に気づくものである。その時、おもしろいなあと好奇心を持って驚くか、ありえない、間違ってる、と否定するか、どちらかになるのではと思う。好奇心どうしの出会いなら、そこからまた新しいものがうまれてくるでしょうが、ありえない!おかしい!ものどうしであったら、そこではただ攻撃しあう決着のつかない争いになっていくのではないか。常識はそもそも論理的でなく全く感情的なものだと思うので、争いになったら、お互い論理的では勿論ないし、自分が正しいと思っているので決着のつきようがない。

結局はこの争いの決着は、「正しい・正しくない(論理)」ではなく「好き・嫌い(感情)」の問題だと認め、適当なところで折り合いをつけることしかない。気分はすっきりしないものが残るでしょうが、お互い様。
                                定森露子

無力から抜け出させるもの

自分だけの力では、どうすることもできないという無力感から人を抜け出させるものとは、その人自身の諦めない気持ち以上に、絶望の淵にあっても必死に生きる人々を尊び、その価値を理解する人々の存在ではないでしょうか。

そうした傷つく人を畏怖(いふ)する社会がある限り、誰もが、たとえ自分がいつか絶望の淵にたされても、きっと何かを支えに生きていくことができるという確信を得ることができるように思います。

2月は目線をあげて

広い日本、2月の季節の様相は随分と違うのでしょうが、私の住む名古屋は、冬から春への橋渡しの時期かと思います。雪がふる日もあれば、あたたかい日があって、橋のうえを行きつ戻りつしながら、すすんでいくのでしょうね。

暖かい日は歩いていても自然と目線が上がり、街路樹や生け垣、庭木、鳥など見えてきます。寒い日は灰色のアスファルトや石しかなかったこの世界が突然、色を帯びいきいきとしたものに変化していて、驚きます。

寒い日でも花は咲いていたのでしょうが、寒い寒い、嫌だ嫌だ、とにかく早く行こう、と身体を硬くして下ばかりみて歩いているので、全く見えてなかったんだな、と思います。しかし暖いと、身体も気分も緩んできて、そうしたら自然と目線は上がり、いろいろなものが見えてきました。庭の梅は満開を過ぎ、水仙は終わり、近くの生け垣の山茶花はあとかたもなく、もっとはやくに見ておきたかった、寒くても目線をあげて歩いていたかったと反省。

どうしたら幸せになるかといったある研究で、「上をむくのがよい」という結果があったとのこと。確かにな~しかし上を向いてあるいては危ないので、できるだけ目線をあげて歩くようにしたい。
写真は満開の梅とうぐいすです。                                          定森露子

“こころ”の可能性への実感と自覚

ティンガティンガの絵

苦悩を創り出す“こころ”ですが、苦悩を契機に、より生き易い人生や世界を創造するのも“こころ”といえます。

 しかし、科学技術が加速度的に革新されていく今日、今後、“こころ”の可能性を開くのは、科学技術に詳しい専門家や薬ではないかと期待と依存を高めてしまう危険性もあります。

 それだけ21世紀は、専門家や薬への過度な期待や依存から人々を解放し、より多くの人が自らの“こころ”の可能性に実感と自覚を高めていくことが期待されます。

   心理相談室“こころ” 室長 定森恭司