We are not alorn in the world

これは、我が家で30年以上使っているバケツにかかれている言葉です。
息子が1歳半で保育園に行く時に、保育園でのオムツ入れとして亡き父が買ってくれたものです。当時は布おむつなので、使用済みオムツは個別に保管していました。ほどなく保育園での用はなくなり、家でつかうことになりました。

ここ20年くらいは、お風呂場においてあります。
子どもたちのみならず、家族全員が英語でかかれたこの言葉をずっと間近にみていたことになります。今更ですが、こんな優しい言葉と絵に見守られていたんだなと、感慨深いものがあります。これが例えば、「がんばることが、人生だ」とか「甘えるな」だったりしたら、また違った影響があったかもしれなません。どちらがいいかはわかりませんが、お風呂にはいりながら見るものとしては、これでよかったと思います。

定森露子

心理学


人間の苦悩や悲哀の意味を問うのが哲学とするならば、いかにすれば救われるかを扱うのが宗教だといえます。

そこで、もし心理学は、人間の苦悩や悲哀にどう向き合うのですかと問われたならば、「人間の苦悩や悲哀の意味を問い、かつ、どのようにすれば救われるかを発見・創造していく学問です」といいたいところですが、まだまだ歴史が浅すぎて、哲学や宗教から学ぶべきものが多いと思います。
           定森恭司
 

努力する

西表島12/25

努力することは大切であるとは思う。が、何にたいして、何のために努力するかを考えてみた。とはいえ、「これからの時間」が「これまでの時間」に比べて格段に少なくなった今の私が考えたことであって、「これからの時間」が限りなくあると思っている若い人(私はそうだった)には何言ってんだろうと思うだろうな。

 

すくない時間を、それに加えて乏しくなってきたエネルギーを、過去のいやなことを消すための努力に使うよりは、あるいは、これから先の何かのための努力につかうより、もう少し「今」に使いたいなと思う。ただ「今」と言ったって、「今・この瞬間」に生きるなんてことは高僧でもない凡人の私が出来るわけもなく、せいぜい「今日1日」か「2~3日先まで」の間のことなんだけど、気持ちよく、楽しくすごすことに、もう少し努力してみようかと思う。

定森露子

紅葉ベスト3


10年ほど前に当時教えていた学生に、「私の中の紅葉ベスト3」を伝えたことがあります。10月でどこか紅葉を見に行きたくてうずうずしていた頃です。
  1位 白神山地   2位 天生峠   3位 せせらぎ街道

いづれも、きれいにしつらえられた庭園ではなく、複雑な、自然の山の紅葉です。ベスト3はさしたる下調べもせずに、だから予想も期待もさほどせずに行ったのですが、とくに白神山地・天生峠はあまりのきれいさと雄大さとで怖くなってしまいました。自然は恐い、と心底思いました。

今年秋、3位のせせらぎ街道にいってきましたが、前に行った時ほどはきれいではなかった気がしました。土地の人が「今年は10月に台風が2度きて、多くの葉を散らせてしまって、例年ほどきれいではないです。」といってました。
やっぱり自然は、勝手な人間の思うようには動いてはくれないものだなあと、思い知らされました。またところどころすごくきれいなところもありましたが、前ほど感動しなかった気がします。感動を得ようと思って行っても、感動はしないものかもしれないと、思いました。

「予想外の・・」「思ってもみない・・・」「突然の・・」が、良きにつけ、悪しきにつけ、心に深く刻まれるようです。
 
定森露子

旅の思い出

人はなぜ旅行するのか?

「思い出づくり」と言う方も多いでしょうが、それを言うのも若いうちではないかと思います。私ももっと若い頃、とくに子どもを連れてあちこちと行ってたときは、そんな気持ちも大きかったです。しかし、子ども達は、何処に行ったとか、どんなところに泊まったとか、ほとんど覚えてないと言うし、多少覚えていたところがあっても、こちらはそこは覚えてなくて、お互い「そうだったの!」行ったときは楽しそうにしてたような気がしてたが・・・                       

ここ数年は、夫婦であちらこちら行くようになってきましたが、「去年のGW何処行ったっけ?」「確か11月どこかいったよね~」みたいな会話が多く、思い出そうとしても思い出せず、もはや「思い出」は旅行先においてきてしまうようになったようです。

なぜ旅行するか。今にして思うに、行ったときに楽しい時を過ごすかどうかだけだと思えてきます。思い出に浸るとか、思い出話に花をさかすということはできません。思い出は旅先に置いてきてしまっているいるので。

こころ穏やかに生きるためには、「その時を生きる」「今を生きる」とかよくいわれますが、私のように年をとってきて覚えてることが減ってくると、自然に「今を生きる」しかなくなってきて、これはこれで、いい生き方かもしれませんね。

写真は白根山の湯釜。50年近く前に友人と湯釜を一周した記憶がありますが、まぼろしかもしれません。 ( 定森露子)

歩くとは?

同じ出来事でもどのように表現するかによって、その人の主体性についてのイメージが知らずのうちにあらわれきまます。

例えば、歩くことについて考えてみます。 「私は歩いている」と表現するか、「歩いている私」と表現するか、「今思えば、ただ歩いていました」と表現するか、「私は歩くしかない」と表現するかで、私という主体の捉え方の微妙な違いが表現されてくるのです。

※主体についてのホロニカル心理学的考察については、<「こころの不思議」の「私とは><「ホロニカル心理学雑感」の「現実主体」>の「主体(私=現実主体)」を参照ください。

真理の発見・創造

人生の意味のある生きた真理とは、デカルト依頼成立した自己を抜きした客観的な普遍的な近代科学的法則として発見されるようなものではく、自己の体験として発見・創造されるようなものでなければなりません。そうでないと、ただの知的で形式的で抽象的な一つの知識にしか役にたたず、もしそうした無機質的な知識を真理と錯覚すると人生はとても空虚なものとなってしまいます。

生きた意味のある真理は自己と世界の出会いの直接体験の中から発見・創造されるのです。 定森恭司

私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。
定森恭司

地縁・血縁・人の縁

先日、札幌で、北海道在住の同世代のご夫婦と一緒にジンギスカンを食べました。その方々は北海道は地縁・血縁が薄いので、住みやすいと言ってみえました。ではお二人は孤立しているかというと、そうではなくて、とてもお知り合いが多いとききました。多分仕事なりボランティアなり、何かを一緒にした、あるいは世話をした・されたといった、直接のかかわりを通しての「知り合い」ではないかと思います。こうしてできた「知り合い」は、地域・親族と言った抽象的な「縁」ではなく、「私」が直接関わって、いい人だな、信頼出来る人だなと感じた人と主体的に「縁」をつないでできたものかとおもいます。いわば、顔のみえる「人の縁」とでもいえるのではないでしょうか。

「地縁・血縁」には良い面、悪い面あるかと思いますが、主体的に結んだわけでもない、しかも顔のみえない人達との、義務の多い「縁」に、息苦しさを感じてしまうということも多々あるかと思います。

一方で、最近は「地縁・血縁」が薄くなったと嘆く方も多いでしょうが、どんな「縁」(地縁・血縁・社縁・知縁・・)であれ、それが有用なものとなるとすれば、そこには必ず、直接的な顔のみえる「人の縁」があるはずです。

この場のような、主体的な、心地よい、気楽な「人の縁」づくりを大切にしていきたい、と、ジンギスカンを食べ終わった後のデザートのソフトクリーム食べながら思いました。

                                定森露子

2つの心理学

心理学には、2つの心理学の立場があるように思われます。
このことを「あるバラの花」のことで考えてみます。

今、AさんとBさんの目の前に、赤いバラの花があります。
この時、Aさんの目の前にあるバラも、Bさんの目の前にある赤いバラも同じバラ科バラ属の花を見ていると考える心理学の立場が成立します。

しかし、この立場とは異なる心理学も成立します。
Aさんと、Bさんの受け取り方には、まったく違う気持ちが湧いていることに注目するわけす。実は、Aさんにとっては、目の前の赤いバラの花は、甘酸っぱいに香りに誘惑され是非部屋の中に飾りたいバラの花です。ところが、Bさんはにとっては、二度に見たくないバラの花なのです。なぜならば、かってバラの花束でもって大好きな女性に求婚をしたものの見事に失恋した花だからです。

このように2人にとっては、同じバラの花を見てはいても、まったく意味の異なるバラの花の世界に生きていることを重視するところに心理学を成立させようとするわけです。

前者の立場は、できるだけ主観的なものを排して、客観的な科学的立場から人の心理の普遍的原理を発見していこうとします。それに対して、後者の立場は、主観的なところにひとりひとり異なる“こころ”を解明しようとする心理学が成立するわけです。

でも、大切なことは、どちらも大切にすることのできる心理学を打ち立てることだと思いますが、いかがでしょうか?               
                               定森恭司