行ってみないとわからない

**写真は阿寒湖の夕日

今日、ついに名古屋は40度超えた!
「暑」という字すらみたくないので、涼しい話を。

先日、北海道に行ってきました。野付半島、根室、霧多布湿原、釧路、阿寒とまわりましたが、前日までの名古屋が暑すぎて、少し涼しいかもとは思ってはいても思いが至らず、用意した着替えでは涼しすぎて、寒かったです。久しぶりに楽に呼吸ができました。気温が低いだけではなく、空が広く、人や建物の少なさも涼しい気分にさせてくれていたようです。

北海道も外国観光客が増えたという話しもありますが、私が行ったところはどこも日本人、外国人ともに少なくて、個人的にはよかったのですが、地元経済からすると、もう少し多くの人にきてほしいかなとおもっているのでは。夏だけ道東に住むという人も増えているとかききます。いいねえ。食べ物安いし、おいしいし。

野付半島のネイチャーセンターでホタテバーガーセットを頼むときに、300にしますか?500にしますか?ときかれ、咄嗟になんのことかわからなかったけど、セットの牛乳のことでした。牛乳500も飲むのか?このあたりの人は?やっぱり行ってみないとわからないこと多いな。今は釧路に住む名古屋育ちの姪が、「夕方になると寒いけどがんばって半袖着てる。そうでないと、半袖着れないし」って言ってました。羨ましい。

(定森露子)

歩くとは?


同じ出来事でもどのように表現するかによって、その人の主体性についてのイメージが知らずのうちにあらわれきまます。

例えば、歩くことについて考えてみます。 「私は歩いている」と表現するか、「歩いている私」と表現するか、「今思えば、ただ歩いていました」と表現するか、「私は歩くしかない」と表現するかで、私という主体の捉え方の微妙な違いが表現されてくるのです。

※主体についてのホロニカル心理学的考察については、<「こころの不思議」の「私とは><「ホロニカル心理学雑感」の「現実主体」>の「主体(私=現実主体)」を参照ください。

(定森恭司)

めのう海岸


連休前半に旅行にいってきました。
この時期、南から北に山越えていくと、雪、山桜、染井吉野、りんごの花、ふわふわの新緑、かがやく新緑・・・この時期の自然の変化が、たった数時間で楽しめます。贅沢!!

一日目は野沢温泉に泊まりました。懐かしい「温泉街」が健在でした。地元の人が共同で管理している源泉掛け流しの外湯がたくさんありますが、何しろ熱い。「あつゆ」「ぬるゆ」とわけてあるところもあるのだけど、「ぬるゆ」でも60度くらいはあるそうで、蛇口の水をめいっぱい出し、おそるおそる蛇口の水の真下に身を細めてやっと短時間入ることのできた外湯もありました。外湯はとても大切にされているようで、地元の生活に根付いているのでしょうが、あんな熱い湯も入れるようになっていくのでしょうか。

2日目は富山県のめのう海岸のキャンプ場で泊まりました。めのうがとれるということで有名なところで、また夕日の絶景ポイントでもあります。まあお天気だったので、海岸にすわって夕日がしずむのをずっとみてました。少し離れたところで小学生の男の子2人ならんで同じように夕日をみてたようです。「スゲー」「やばい」とときどきつぶやいていました。人間もまだまだ大丈夫だなと、なぜか感動しました。

(定森露子)/p>

※写真は、瑪瑙海岸の石。この中にめのうがあるやもしれず。

絶滅危惧種 ガラケー


「ガラケー、2017年行以降生産中止」のニュースに、びっくりしました。新しいものを使いこなせない、使いこなそうとしない人間は(私含め)、この世から切り捨てられていくのか・・・・。

今持っているガラケーの機能すらそのほんの一部しか使ってないのに(何も不便ではない)、スマホに変えたら悩みが増えるだけとガラケー族をとおしていましたが、これは困ったことになった。しかし、そもそも今に困っていないのに、新しい機能を勝手に示して「良いだろう!」、「便利だろう!」、古いのはいらないでしょ!というのはおせっかいではないか。困っている人や良いと思える人には勿論「良い」のでしょうが、しかし私のように今まででいいと言う人も尊重して欲しいと、ニュースに一人つっこみしていました。

ところが、少しこのニュースに関する、他の記事をみたりしていたら、「ガラホ」なるものが作られているとか。スマホの機能も一部持った基本ガラケーだとか。説明よんでもそもそもガラケー族には理解不明なことが多いのですが、見捨てられていないことがわかってほっとしています。でも料金は高くなるのだろうから、やっぱり困る。

(定森露子)

オリンピック、徒然

勝負事が恐くて、応援しているチームが競っているときは、その場から逃げ出してしまう、軟弱な私にとって、連日のオリンピックの戦いに、正直、疲れてきたところもあります。わくわく、はらはら、がっかりも続けば、こころは疲れてくるものですね。

とはいえ、やっぱり気にはなるので、新聞・TVを見てしまいます。さすが「オリンピック」いろいろと考えさせられることも多いです。

今一番感心してるのは、あの全世界が注視しているというプレッシャーの中に立っていられるということ。日頃の力を発揮するということ以前に、倒れずその場に立っていること自体、すごい。

多くの選手はその場に立つまでに、数え切れないほどの「負け」を経験していると思うのだけれど、どうやってその「負けた」挫折感、無力感、自己否定感(言葉では表現できないほどの)などをクリアーしてきたのだろうか。周囲の支えなどあったにしても、結局は本人の力。「負け」に負けなかった分、クリアーした分だけ、強くなってきたんだろうなあ、と改めて尊敬!!!

がんばれ 世界中の選手                 (定森 露子)

 

探しています


相談室にいくつかの「小物」がおいてあります。インドの真鍮製の人形、シバ神像、龍、ベトナム製の木の壺、ちいさな仏像(ホームページの中にいくつか出ています)・・・・。ちょっとした飾りというか、息抜きの物達ですが、ときには、こころの一部を表現したり、対話したりなど、様々な働きもします。その中でも特に古くからあるのが、この写真の「オカリナ?」です。相談室それぞれに置いてあるのですが、鼻がかけてしまったりして、引退を考えています。あまりにも馴染んでいるので同じものを置きたいのですが、買ったのが何せ10数年も前のことで、買ったお店、置いてそうなお店にきいたところ、ともに「見た覚えはあるが、今はありません」、ということでした。どなたか置いてあるお店をご存じでしたら、御連絡くださいませんか。あまりにも手がかりもなく、ネットでも調べようがありません。

メキシコ製、陶器、背中に穴が4つないしは2つ、多分オカリナ? 

( 定森露子)

年の終わりに

年の終わりが近づくと、不思議なもので、今年あったいろいろなことが思い出されます。時の流れを感じることもなく、気ぜわしく日々過ごしてきてしまった1年。年の終わりに1回ぐらいはゆっくりかみしめることも必要かもしれません。静かに大晦日に除夜の鐘の音を家族そろって(日本中の多くの人といっしょに)きく瞬間が大好きです。

私にとって2011年はいろいろな意味で忘れられない年になるでしょう。
東北大震災の津波や火災をリアルタイムでテレビで見ていたということ。大変なことを、手の届かないもどかしさとともに、他人事として見てしまっていたことの罪悪感・・・ 
「科学的根拠」ということの「根拠」のなさ
不安があっても、誰かが何とかしてくれるという他人事感

自分のこととしてこの世にかかわっていくことの大切さを思い知らされた今年でした。

(定森露子)

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やっと、寒くなくなってきました。「暦」とはたいしたもので、「立春」ごろになったらちゃんと暖かくなりました。今年は暑いの寒いのと言っても、大枠はかわらないんだなあと感じさせられます。と、言ったのもつかの間、また寒さが戻って来ました。しかし、こうして「暖かい・寒い」を繰り返しながら、実は「寒い」の底が上がって行くのでしょう。

「春」のイメージは本当に人さまざまでしょうね(日本限定で考えています)。春になってうれしい人、うれしくない人、うれしい人をみてうれしい人、うれしい人を見てうれしくない人・・・・。春がつらい人もいます。「春!!喜びいっぱい!!」といった画一的な報道は少し控えめにして欲しい。

こんな事言って、せっかくの春に冷たい風を吹き込んでしまったようで、春を待っている人には少し申し訳ありません。しかし季節に思いを重ねる私たちであればこそ、季節の繊細な空気を感じ取りたいもの。

(定森露子)

写真:バナナの皮で作られたバオバブ・動物たちは、相談室に入ってすぐの靴箱の上におかれています。相談室を訪れた方がまず始めに目にする物だと思います。アフリカのどこかの国の養護学校の子の作品だったと記憶しています。開室以来、ずっと変わらずここにいて、相談に来てくださった方々のやさしいまなざしを受けています。

桜の頃に思う

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春、花の便りが届く頃になりました。私が最も好きな季節です。

園芸家の柳生慎吾氏が常緑の常磐木より、落葉樹の方が命が続いていく感じがする。記念樹にぴったりだといった趣旨のことを話しておられるのを聞きました。

花が咲き、花が散り、結実し、その実を落とし、紅葉し、落葉して冬枯れする。
そしてまた、その裸木が芽吹き、花を咲かせる。
毎年毎年の繰り返しであるけれども、着実に年輪は重ねていく。

人間もまた、この「死と再生」を繰り返しつつ、生きているのだなあと思うことがよくあります。
年輪という過去を抱えつつも、花を散らし、実を落とし、葉を落として、枝だけの裸木となって冬を耐えた後、新たに生まれ変わったように美しい花を咲かせる春の木々。

懐かしい過去に戻ることもできないけれど、嫌な過去も嫌な過去として置いておいて、生まれ変わる。REBORN。
こんなことが実感できる季節だから、私は好きなのかも知れません。

(前田由紀子)