新緑になる前

 4月から5月にかけての、近隣の山の広葉樹のふわふわと優しい感じがとても好き。ところどころ白やピンクの山桜も咲いていたりもして、まばゆい新緑になる前のほんの短い時期の楽しみです。木々はこうして新しい年を迎え、秋になると葉を落とし1年を終える。 考えてみたら、どうして木々は毎年毎年、新しい葉を出すのだろう?どうせ秋には落としてしまうのに。どうしてこんな面倒なことを繰り返しているんだろう。何故かは木にきいてみればいいのだろうけど、それはならず。よく分からないが、何回も何回も何回も同じことを繰り返しているかのようにみえて、実は少しずつ変化していってて、その土地の気候や空気にあわせていってるのかなあと思ったりもする。気候や空気も年々変化していってるだろうから。

 
 何事もずっと「変わらず」はないのかも。                                                     

                                                  定森露子

自分なりの人生の創造に向かって

                                                                                                 sakura  人生を、生や死から見つめ直してみたとき、
 人生を、生きている意味から問い直しはじめたとき、
  自分なりの人生や、いろいろな人生があることが明らかになります。

  人が、自分自身が自己や世界に対する生き辛さを見つめ直し、より自己と世界が一致していくような道を探し求める結果が、それぞれの人の人生を創造するともいえます。
 こうして人の命の数だけ、かけがえのない様々な人生の物語があるわけです。
 また、ひとりひとりの人生の物語同士が複雑に絡み合いながら、かけがえのない人生が創造されていると思います。

  命あるものは、誰もが代替不可能な存在なのです。           (定森 恭司)

誠実な会話のための条件

 誠実な会話ができる時を振り返ってみると、お互いの感じ方や考え方が、いつも一致しているとは限らないことに気づきます。むしろ、誠実な会話が成立している時ほど、自分の感じ方や考え方とは異なる人がいるもんだなあと、つくづく感心しているものです。 自分とは異なる世界観や常識をもつ人がいることに、日頃から沢山気づくことができている人ほど、世界の多様性と面白さを感受することができているといえます。

 しかし、こうした気づきのためには、次のような条件が必要になります。
  ①問題に対して、お互い自発的な問題解決模索の態度をとること。②自分に対しても相手に対しても、できるだけ率直な態度をとろうとすること。③安心して自己表現できる場づくりにお互い心がけること。
 こうした条件が満たされて、はじめて人は安心して異なる感じ方や考えを相手に語ることができます。

  協働的な雰囲気がある場では、誰もが問題を解決の主体になり得ることに自信を深めます。こうした協働的な場があるからこそ、自らの感じ方や考え方を新鮮にし、それを基準にして自らが判断し、自らが問題を解決していくことができます。そして、自分なりの解決ができながら、自分とは異なる多様な見方や問題解決の仕方があることを実感し、違いに対する寛容さを身につけることもできるようになると思われます。   (定森恭司)

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  やっと、寒くなくなってきました。「暦」とはたいしたもので、「立春」ごろになったらちゃんと暖かくなりました。今年は暑いの寒いのと言っても、大枠はかわらないんだなあと感じさせられます。と、言ったのもつかの間、また寒さが戻って来ました。しかし、こうして「暖かい・寒い」を繰り返しながら、実は「寒い」の底が上がって行くのでしょう。

  「春」のイメージは本当に人さまざまでしょうね(日本限定で考えています)。春になってうれしい人、うれしくない人、うれしい人をみてうれしい人、うれしい人を見てうれしくない人・・・・。春がつらい人もいます。「春!!喜びいっぱい!!」といった画一的な報道は少し控えめにして欲しい。

  こんな事言って、せっかくの春に冷たい風を吹き込んでしまったようで、春を待っている人には少し申し訳ありません。しかし季節に思いを重ねる私たちであればこそ、季節の繊細な空気を感じ取りたいもの。     定森露子

写真:バナナの皮で作られたバオバブ・動物たちは、相談室に入ってすぐの靴箱の上におかれています。相談室を訪れた方がまず始めに目にする物だと思います。アフリカのどこかの国の養護学校の子の作品だったと記憶しています。開室以来、ずっと変わらずここにいて、相談に来てくださった方々のやさしいまなざしを受けています。

自然治癒の力に触れる

p11001234  現代の心理学は、「こころ」を対象としながら、「こころ」を見失ったような感があります。心理学の研究対象が、認知、記憶、行動、感情、パーソナリティなどに細分化していることの影響があるかもしれません。対象化される「こころ」は、いずれも「こころ」のある側面、機能、作用をさしていても、その全体ではありません。また、「こころ」は、細分化された断片を組み合わせて全体として描こうとしても描ききれません。ある意味で、直観的にその全体を実感する以外にない代物でもあるのです。「こころ」の全体から何かを研究対象として切り取った瞬間、すでにそれは「こころ」の全体ではなくなってしまうのです。どうやら全体と部分を共に対象とすることは、残念ながら不可能のようです。学問的に研究すると、こころの全体から遠のき、全体を実感しようとすると直観的な世界でしか表現できなくなり、科学的な学問から逸脱してしまう矛盾を孕んでいるからです。
 

   しかし、これまでの実に沢山の人との出会いを通していえることは、「こころ」には、自然治癒の力も備わっているということです。しかし、それは、ただほっておけばよいというようなものではありません。自己と世界が適切に出合いつづける方向に「こころ」を精妙に働かせる必要があります。世界内存在として、自己と世界の一致を求める生き方を模索し続けるところに、「こころ」は自然治癒の顔をのぞかせる印象です。

 自己と世界の一致を求めて自己が触れて欲しがっているところを探り当て、自然な自己の流れに素直に従えるようになる時、自然治癒の力が働き出すように思われます。
 

   今・この時、まさにこころが触れたがって貰いたがっているところに焦点をあわせると、自ずと新しい言葉や生き方がわきあがってきます。それは、まさに新しい人生が誕生する瞬間でもあります。   (定森恭司)

やっかいな“こころ”

  “こころ”のことを、科学的、哲学的、理論的に考えようとする時、忘れがちになってしまう重要問題があります。
 実は、“こころ”を観察対象とした途端、“こころ”は観察する側と観察対象となるさ側に別れてしまうということです。分離されているとき、観察しようとする私(主体)は、あたかもこの世の世界から離れた別世界にいるかのような存在になっています。しかし、実際には、それは錯覚です。“こころ”を観察しようとする私が、世界の外側にいることは、観察しようとする私そのものが世界の内に存在し生きている限り不可能なことです。

 しかし、じゃあ、今度は、観察しようとしている私を含んで、“こころ”のことを考察しようとしても、じゃあ、今度俯瞰しようとする私をどのようにするかというやっかいな問題がどうしても残ってしまいます。結局、“こころ”の現象では、“こころ”を観察しようとした途端、“こころ”のことを把握しようとする私と“こころ”そのものとが分離してしまうというやっかいな問題があるのです。

 このやっかいな問題は、“こころ”の問題を考える時、さらに次のような問題を引き起こします。観察しようとする私が、一体、“こころ”の問題に何を発見しようとするかで、“こころ”の問題の次元そのものまで変化してしまうということです。“こころ”の問題に、感情の問題を発見しようとすれば、“こころ”の問題と感情とのつながりがいろいろと発見できます。また、“こころ”の問題に、物事の理解の仕方のような認知と言われるような働きの問題をみつけようとすれば、“こころ”の問題と認知の歪みのつながりを発見できます。また、“こころ”の問題に、脳の機能不全を見ようとする人は、そこに生物・神経学的働きと“こころ”の問題のつながりを発見することができます。また、“こころ”の問題に、社会・文化の影響などを見つけようとすれば、これもまた発見できるのです。

 このように、“こころ”の問題を考える時、観察しようとする人が、どのような姿勢で何を発見しようとするという構えそのものが、“こころ”の現象に影響してしまうのです。“こころ”の考察や“こころ”の問題は、ニュートン力学のように普遍法則化できず、観察主体(私)と観察対象(“こころ”)の関係を抜きに語ることはできないといえます。 (定森恭司)

暑かった~

 

モラ(写真):土台となる布の上に、図案を描いた布を重ね、下の布を切らないように切り、布端を折り込んでたてまつりで縫う。パナマのサンブラス諸島などに住むクな族の女性が作る民族衣装を起源としている。

モラ(写真):土台となる布の上に、図案を描いた布を重ね、下の布を切らないように切り、布端を折り込んでたてまつりで縫う。パナマのサンブラス諸島などに住むクナ族の女性が作る民族衣装を起源としている。

 

 

 やっと、朝夕涼しくなってきました。ほっとしたら体もほっとして、ちょっと疲れた感があります。

 「暑いと言ったって、涼しくなるのでもなく・・」と、いつも暑いなんてあまり言ってませんでしたが、今年の夏は「暑い」という元気すらなく、ただただ、「はあ~~」しか出てきませんでした。

  買い物に行く気にもならず、家にある食材ですますという食事が続き、洗濯物を干しにいくのも嫌で、選択回数も減りました。

  不本意ながら、夜通しエアコンをかけて寝ていました。この夏の電気使用量はかなり増加したと思う。地球温暖化にさらに拍車をかけてしまったのではないか・・そう思いつつ、エアコンつけていました。こころの中でいろんないい訳考えながら。

人間なんて(私なんて)、やっぱり結構いいかげんなもんだ・・・
涼しくなったら、環境のことしっかり考えよう。 (定森露子)

新たな世間

 現代社会は、人と人、人と自然、人と世界との関係が、疎隔化し、異質化し、ますます断絶的なものになっているように思われます。また価値の多様化や機能的社会の増長は、理性や知性でもって物事を分析し分類化する思考優位型の社会をもたらします。しかし、そうした思考作業を各自独自の物差しや自己基準で分析や分類を行うため、お互いの共通性をかえってみつけにくくなっています。こうしてお互いの語りは、一層、差異性、異質性が目立つことになり、共通性を見出しにくくなってきています。人と人は、言葉でいくら話し合っても、こころの奥のどこかや身体感覚的に違和感がつきまとってきます。違和感は、つながり感の喪失をもたらします。つながり感の喪失は、孤立感、不安感、疲労感をあおることになります。同じ世界内存在として生きている者同士でありながら、安心感や信頼感ももちにくくなってきてしまうのです。

 
 人と人、人と自然、人と世界のつながりは、いくら知的に理解しようとしても、生身の自分(身体的自己)が、実感しないことには意味をもちません。自己の身体感覚の直接体験として、人、自然や世界とのつながりをふれていると実感する体験世界の話なのです。
 昔は、村に時を告げる寺の鐘の音に、村人は一瞬のうちに同じ共通体験の時空間を共有していたと思われます。運命共同体的生活の場が、人々に「同じ世間」をもたらしていたのです。日頃から、「鐘の音」を共有するような生活感覚が、人と人の間の根底にあって、人と人、人と自然、人と世界をしっかりとつないでいたのです。

 

 しかし、今や、運命共同体的生活社会は、基盤から変容してきています。こうした社会変容の中で、人はどのようにして、つながりを希求しようとするのか、誰もが気がかりなってきているのです。
 ツイッターに夢中になり出した人の話を聴いていますと、ブログやメールなどでは、表現した書き言葉が、実際にどのように受け取られるか、とても神経をつかわざるを得ないけど、たった140文字の呟き的のツイッターは、即レス、即時性において、井戸端会議的な一種の気分の共有ができて、とても楽だと語る人がいます。深い話では、かえって、人とのつながりが持ちにくくなった時代の変化の中で、たわいのないできごとならば、誰かと無性に語り合いたくなってきているのかも知れません。ふと、周囲を見渡した時、隣近所の世間の人のいない暮らしになりつつある現代人にとっては、すぐに応答してくるツイッターの世界こそ、「新しい世間」なのかも知れません。  (定森恭司)

生きているということは変化しているということ

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 ちょっと前から「中高年」と括られる年齢になっている。体の変形、体調のどこということのない不調、視力・聴力・その他各種感覚の衰えなど、これはもう「元には戻らない」もの。もとのようにするという意味での「治す」ものではないし、治らない。
 長年生きてきて、その結果変化してきたのであり、これからも生きている限り変化していくのであろう。考えてみたら、人間の体って結局変化し続けているわけで、途中でどんな手を加えようと、決して元には戻らないものなんだということがつくづく分かってきた今日この頃。

 こころも同じで、今何らかの不調和なり違和があったりしたら、それをすっかり無くし、もとのようになるかといったら、一度変化してしまった以上それは無理だと思う。「治る」ということはありえないのではないか。だとしたら生きやすい方向に、変化の方向の舵をとっていくしかない。どの方向に進むかは自分自身しか分からない。
 
 醤油を入れすぎてしまった肉じゃがに、あといくらお砂糖を足したりみりんを足したりなにをしたって、元には戻らない。始めに予想した味には決してならないが、新しいもっと美味しい味を創ってていくことは出来る。
 
 悩んだとしたら、悩みをきっかけに、前より美味しい人生の方向に変化の舵をとればいい。    (定森露子)

「うつ」雑感

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  精神病理学で有名な医師の木村敏は、「わたしはいま、精神医学の臨床と哲学を一体のものと考える『臨床哲学』の道を歩いていますが、そういうわたしの目には、精神医学が急速に自然科学化し、脳科学化している現況が、非常に危険なもののように映ります」と「臨床哲学の知」(2008年)という本の中で昨今の精神医学の傾向に警告を発しています。私は医学に立脚する立場ではありませんが、心理相談において、臨床心理学と哲学を一体のものとして考えていくような「臨床哲学」を志しているものとして、まったく同様の危惧を抱いています。

 
 特にうつ病に対しては、昨今の新聞やマスコミは、現代医学の研究成果として、神経伝達物質を中心とする脳神経的な生理的変化によって、一義的原因がすべてが解明されたかのような誤解を与える報道に危惧を抱いています。
 最新の脳科学がうつに関して明らかにしているのは、あくまで測定可能として選択された神経伝達物質に関する変化と医学的にうつと診断された人との相関です。では、なぜ神経伝達物質の働きが不調になると、また神経伝達物質の不調になると、なぜうつになるのかとの説明となると、問題は複雑となります。ただ、脳科学の成果の中で、今言えることは、うつ病においては、脳のレベルでは、神経伝達物質の不調が起きるらしいと言えることです。しかし、あくまで言えることは、そこどまりだと思います。こうした「うつ」の扱いは、うつ状態とされる人が感じとっている主体(本人や周囲の人との関係)としての生きづらさや、その意味の変容までの説明は不可能です。神経伝達物質という神経生理学的レベルの変容でもって、うつとなっている人の悩みのすべてを説明を還元することはできません。もし、還元イメージを抱くならば、それこそ非科学的であり、ある次元では言える論理を、他の次元まで飛躍させているカテゴリーエラーといえます。

 

 うつの増加に対しては、適切な医学的ケアだけでなく、不景気などへの就労支援や職場のメンタルヘルス対策の充実化や、うつ的思考や生き方の変容を扱うような臨床心理学的支援など、様々なアプローチを組み合わせることが大切なのです。
 しっかりとした世界観や人間観などを探求する「臨床哲学」の土台をもたない心理学の自然科学化に危惧を感じるのです。      (定森恭司)