自己意識の発達

自己意識の発達 (Ver2021.4.5,定森恭司)

自己は、有(生)と無(死)がせめぎ合いながら同一に存在するような絶対無(空)という場から創造され、かつ絶対無(空)という場に包まれています。 自己は、誕生以来、有(生)と無(死)という矛盾をはらんだ存在として場から創造されたといえるのです。しかも自己は、すべての生成消滅の源である絶対無から創造された世界と本来ホロニカル関係(縁起的包摂関係)にあります。そうした関係にあるが故に、自己は世界と不一致となって対立しながらも、その世界を自己自身に一致させよう自己及び世界の歴史的変容を促進しようとし、世界もまた、自己を世界自身に一致させようと世界及び自己の歴史的な変容を促進しようとします。

個的存在としての自己の生死の物語には、宇宙開闢以来の壮大な大きな物語が、個の人生に映され、かつ包摂されているとホロニカル心理学では考えます。

自己とは、個人内に閉じた自己などではなく、個人内を超えた超個的な存在として歴史的に自己組織化される場所的存在と考えられるのです。

場所的自己は、場所的自己が生きる場所の無秩序や秩序などを自己自身に映し、それを包摂しながら、場所的自己自身を発達させながら、やがて場所的自己の一生を終えると考えられます。場所的存在としての自己は、場所を共にした人の記憶に残る存在として一生を終え、場所と自己を創成した場そのものに還ると考えられるのです。

自己意識の発達には、次に示すような段階があると考えられます。

第0段階(ゼロ・ポイント)
自己と世界の誕生前です。自己と世界が誕生する絶対無(空)の場です。

第1段階(混沌)
場所的自己と世界の不一致・一致の直接体験における自己と世界の関係が、まだ無境界的混沌にある段階です。混沌段階では、場所的自己と生きる場所とは、いつも共振的共鳴的に一致するとは限りません。その結果、場所的自己と場所が一致する時には、自己にとって生きる場所は「天国」そのものであり、不一致の時には、「地獄」そのものとなります。第1段階では、天国と地獄が絶え間なく繰り返されると考えられます。なお、この時の場所的自己(赤ん坊)が生きる場所とは、通常、養育者を含む養育環境を意味し、場所的自己にとっては、場所と融合したものとして体験されています。なお、場所的自己は、その記憶を身体に刻み込みます。この段階の場所的自己の意識は、前個的といえます。

第2段階(融合)
その後、場所と場所的自己が不一致・一致を繰り返す中から、場所と場所的自己の不一致時に、内的世界と外的世界が融合したままの内外融合的主体(我という個の意識の前段階)が機能的に結晶化してきます。この内外融合的主体は、場所と場所的自己の不一致時の一瞬に創発され、一瞬にして泡のように混沌世界に消融します。この時期の内外融合的主体にとっては、場所はもっぱら重要な養育者を通じて原初のホロニカル主体(理)として経験されます。原初のホロニカル主体(理)の段階では、場所と場所的自己が一致の時には、場所的自己にとって生きる場所は、「慈悲的な世界」として場所的自己によって体験され、不一致の時は、「苛烈な世界」として体験されます。原初のホロニカル主体(理)は内外融合的主体に内在化されます。なお、場所的自己は、その記憶を身体に刻み込みます。この段階の場所的自己意識は、前個的です。

第3段階(幻想)
その後、内外融合的主体は、場所と場所的自己が不一致・一致を繰り返す中から、場所的自己内に、身体的自己同一性を直覚する統合機能をもった原初の内的現実主体(内我)を結晶化させます。この時、原初の内我にとって、場所的自己と一致の快をもたらす対象は、すべて場所的自己が独占しているものという感覚をもたらします。逆に、原初の内我にとって、場所的自己と不一致の不快となるものすべては、原初の内我からは分裂・排除され、非自己化なるものとして外界に映され、幻想的なホロニカル主体(理)を内在化した外的現実主体(内外融合的外我)が形成されます。幻想的ホロニカル主体(理)の段階では、場所と場所的自己の一致は、「慈悲の世界」となって場所的自己に体験され、不一致の時は、「支配的な世界」として体験されます。なお、場所的自己は、その記憶を身体に刻み込みます。この段階の場所的自己は、前個的と個が交錯します。

第4段階(他律)
その後、内外融合的外我は、場所と場所自己が不一致・一致の繰り返しの中で、場所的自己が所属する社会の既知の理(ホロニカル主体)による物事の識別基準を積極的に取り込みながら、自己(内的世界)と非自己(外的世界)とを識別する認知能力をもった外我に脱統合されながら発達していきます。そうした外我に対して、内我は、自己と世界の不一致・一致のさまざまな直接体験を統合的に直覚する役割を担うように発達していきます。既知のホロニカル主体(理)の段階では、場所と場所的自己が一致の時には、場所的自己にとって生きる場所は、「慈悲的な世界」として体験され、不一致の時は、「批判的な世界」として体験されます。既知のホロニカル主体(理)は他律的外我に内在化されます。なお、場所的自己は、その記憶を身体にも刻み込みます。この段階の場所的自己意識は、個的です。この段階の外我と内我の不一致・一致の繰り返しは、次に示すような認知の発達段階とともに、自己意識を段階的に発達させていきます。

2歳半~3歳にかけて,大小・長短・美醜などの二次元的比較が出来るようになると、内我そのものを観察対象とする他律的外的現実主体(他律的外我)が芽生えだします。すると自己自身を他から識別して実感・自覚するようになり「私」という主語的意識が芽生えてきます。主語的主体的意識の目覚めは,第一反抗期をもたらします。しかし思考の能力は前論理的で直観的であり自己中心的です。

7~9歳位になると,具体的事物についての論理的操作ができるようになります。それに伴いそれまでの自己中心的世界の脱中心化が進み,ちょっとしたルールや他者の視点から物事を理解することができるようになります。

第5段階(自律)
その後、場所と場所自己の不一致・一致の繰り返しの中で、外我は、内我との内的対話を通じて、内的世界(自己)と外的世界(世界)の不一致・一致が、より一致する方向に自己及び世界を変えようとしていきます。それは内的対象世界においては、既知のホロニカル主体を内在化する外我と自己と世界の不一致・一致の直接体験を統合的に直覚する内我との葛藤という形で展開します。特に、言語や記号による抽象的な論理の操作能力を獲得する思春期に葛藤は先鋭化しはじめます。そうした認知能力の獲得は、外我自身がこれまで内在化していた既知のホロニカル主体(理)が,内我にとってむしろ生きづらさをもたらす場合もあることに気づくようになるためです。これまで外我によって制御されていた内我が,自己と世界の出あいの不一致・一致の直接体験を自己照合の手がかりとして自己主張しはじめたといえます。すると、次第に他律的外我は,内的現実主体と適切な対話軸をもった自律的外我に時間経過の中でゆっくりと移行していきます。そして自律的外我は、より生きやすさをもたらすような新たなホロニカル主体(理)を自ら創発するようになります。創発的ホロニカル主体(理)の段階では、場所と場所的自己が一致の時には、場所的自己にとって生きる場所は、「慈悲的な世界」として体験され、不一致の時は、「悲哀の世界」として体験されます。創発的ホロニカル主体(理)は、自律的外我に内在化されます。なお、場所的自己は、その記憶を身体にも刻み込みます。この段階の場所的自己意識は、個的と超個が交錯します。

第6段階(IT:それ)
その後、場所と場所自己の不一致・一致の繰り返しの中で、場所的自己は、場所的自己そそのものを創造した生死の場である絶対無(空)との不一致・一致の中で、場所的自己と場の一致に向かって、場所的自己を自己組織化していきます。そして、場所的自己の究極に、場所的自己は、創発的ホロニカル主体(理)を脱統合する中で、すべてを全総覧する絶対的主体である「それ(IT)」を発見します。この段階の場所的自己意識は、超個です。「それ(IT)」は「慈悲の世界」として体験されます。

※詳しくは、心理相談室こころ室長 定森恭司著の「ホロニカル・セラピー:内的世界と外的世界を共に扱う総合的アプローチ」(遠見書房,2015)、または、定森恭司・定森露子共著の「ホロニカル・アプローチ:統合的アプローチによる心理・社会的支援」(遠見書房,2019)を参照ください。

付表 自己意識の発達段階

 

“こころ”なき世界

柴田政哉さんの素潜りによる撮影

“こころ”なき世界は、無限の虚無の世界となります。
“こころ”なき世界は、自分と自己ばかりか自己と他者のつながりを喪失します。
“こころ”なき世界は、沈黙の祈りなき世界となって喧噪語と暴力が蔓延する世界となります。

私たちは信仰を問わずもう一度、“こころ”の原点に立ち戻り“永遠の今”に目覚める必要があるのではないでしょうか。

(定森恭司)

いろいろな私


「私(我)」って一体なんだろうとは、誰もが一度は考えるものです。

「我思う、故に我あり」の「我」も、「私」についての有名な哲学者デカルトの言葉です。

デカルトという人は、世の中のあるゆるものについて、それが本当にあるかどうかを徹底的に疑ってみた時、間違いなくあるのは、「疑っている我」だと発見したというのです。しかし、こうした「私」は、普段、「私は、○○です」と語ってる時の「私」のイメージとは異なり、「私は、○○です」と感じたり、考えたりしている私自身に気づく「私」といえます。「私」を観察の対象として「観察している私」のことを指しています。

そこでよくよく、こうした2つの私を想定した時、私たちは普段、「自分って駄目だな」「自分って本当馬鹿だな」「私ってつくづく○○が好きだな」などと、「観察する私」と「観察される私」が無意識のうちに対話しながら生きているといえます。

ところが、最近、いい意味での2つの私の生き生きとした対話と交流が失われ、「自分は駄目だ」「自分は馬鹿だ」などと観察する私が、ただ一方的に観察される私のことを批判・批評ばかりしている人たちが増えてきているような気がします。

(定森恭司)

臨床心理士は、治療者か? それとも相談相手か?

病気、障害や深刻な問題を背負った人と臨床心理士が向き合う時、病気、障害や深刻な問題を、治したり、回復を図ったり、解決をする人として登場するのか、それとも病気、障害や深刻な問題を前にした時、どのように生きれば人生がより生き易くなるのかを、共に模索する人として登場するかは、その後の関係に大きな違いをもたらします。

両者はとても似ていますが、人間関係の捉(とら)え方においてパラダイムが抜本的に違います。こうしたパラダイムの違いを十二分に承知しておかないと混乱することになります。

※心理相談室“こころ”の臨床心理士は、よき相談相手になろうと日々努力しています。

いろいろな気分に気づくことの大切さ

ある激情に“こころ”を奪われ、視野狭窄的状態になってしまうと、人生の選択肢が狭くなってしまいます。
例えば、「辛い」という気分に圧倒され、「自分はみんなから嫌われている」と思い込んでしまって被害的疎外感に常に“こころ”を奪われている人は、こうした自己照合の視点からいつも生きがちです。

しかし、こうした自己照合を、直接体験に対するほんの一部のフレームワークとして、一旦、脇に置き、「辛い」という気分以外の別の気分が直接体験からわき上がってくるのを待ちます。すると、「寂しい」「何を甘えたことをいっている」など、さまざまな、別の気分や自己照合のシステムが自ずと動きだしてきます。
その上で、異なるフレームワーク同士の対話などを求めていくと、ごく自然にこれまでとは異なった新しい生き方の選択肢が創発されてきたりします。

(定森恭司)

つくり笑い

辛いこと、悲しいこと、怖いこと、怒れることなど、“こころ”をかき乱すような出来事にいくら出会っても、なんでもないかのように、つくり笑いをする人たちがいます。“こころ”の奥で感じている本来の感情は、“こころ”の中の鍵付き金庫にしまい込んでしまったかのように振る舞うのです。そいや、金庫の鍵をしたことすら忘却してしまったかのようです。

カウンセラーは、声なき声に、じっと傾聴する立場にいます。その聞き手としてのカウンセラーが、語られる話の内容に触発されて、辛くなったり、悲しくなったり、怯えたり、怒れてきたりと、とても“こころ”忙しくなるのに、当の本人は、つくり笑顔のまま淡々と語り続けるのです。こうした時は、カウンセラーが感じる感覚と、面前の人の言動や仕種がとても一致せず、とても奇妙な感覚にカウンセラーは陥ります。

一般の人は、つくり笑顔に出会うと、こっちもつくり笑いをしなくては失礼ではないだろうかと思うものです。そのため通常の会話では、本当は笑う気にもなれない笑いを社交的に交わしあうことに終始します。しかし、こうした交流は、冷めた交流となり、人間関係が深まりません。特に、人と人との深いつながりを求められる場面では深刻な問題となりがちです。

つくり笑いをする人の多くも、“こころ”の奥との対話を避ける代償として、「本当の自分がわからない」「何か物足りない」「生きている実感がもてない」「いつも空しい」といった悩みを抱えていたり、さまざまな身体化された症状に苦しんでいます。しかし、そうでありながら、こころの奥に触れることへの抵抗としんどさを生体レベルで熟知し、心的葛藤に触れるような話を巧妙に避けてしまうのです。

実は、鍵つき金庫にしまい込む仕組みは、相当巧妙なこころの仕業が関与しているのです。それは意識的な行為というより、あまりの絶望や恐怖から、身を守るためのため、一種の自動安全装置が作動しているといった方がよいのです。

こうした人に対する心理相談では、“こころ”の奥の世界と向き合うための共同作業となります。しかし、“こころ”の奥には、絶望感・孤独感・噴怒などが潜むだけに、とても危険な共同作業ともなります。鍵付き金庫にしまい込んで鍵をしたことすら忘却した“こころ”の扉を開けるからには、お互いが相当の準備と覚悟を固める必要があるのです。

しかし、一旦、カウンセラーとの共同作業のための信頼関係と“こころ”の奥に向かう覚悟が生まれてきたならば、こころの扉を開けても可能な時というものがやってきます。準備が整うと、たとえ、“こころ”の深海からすまじいものが噴出してきても、しっかりと共同作業で抱え込むことができるからです。一時は、暗闇の世界に呑まれかかったり、絶望的気分に鳴咽したり、激情の嵐に“こころ”を奪われたりすることになりますが、その嵐を共同作業で抱え込みながら通り過ぎた時には、これまで味わったことのない世界が一条の光とともに開けてきます。それは、まさに死と再生のドラマから生還したといっても決して過言ではないような感動の出来事となります。

こうした体験を契機に、“こころ”の表層と深層がつながり、つくり笑いも消えていくのです。

(定森恭司)

こころの奥の暗闇

明るい楽天地を求めて、ソーシャルメディアをつかっていくら言葉を交わしても、人との深い絆は得られません。人と深い絆を結ぶには、時として、むしろ闇夜の世界に足を踏み入れる勇気がいります。

太陽が沈み闇夜の孤独に耐えざるを得なかった昔は、物思いにふけったり、何かを作ったり、祈ったり、唱えたりして、孤独と向き合うしかなかったと思われます。世界は、昔も今も光と影から成り立ち、闇夜は非日常生活という深みをもたらすものとして、光に照らされた日常生活の補償的な時空間をもたらしています。

しかし今日、人は闇夜の時空間の孤独に耐えることができず、一時の沈黙の間すら恐れて、情報機器を駆使して何かの情報に触れようとします。 しかしながら、暗闇を知らず、暗闇を畏怖することなく、何かを追い求めたところで、かえって孤独に耐える力を失っていくものです。

暗闇の孤独は、自ずと心の奧との対話をもたらします。そしてこうした暗闇をどこかで別のところで同じように感じている人々のことを思い、暗闇の世界によって、人は他者と出会いつながりを得ていると気づくます。 暗闇は言葉以前の世界であり、沈黙の世界です。言葉すら届かない暗闇の世界とは、永遠の世界への数少ない接近方法でもあります。 暗闇の世界とのつながりを失った現代社会のような喧噪世界では、人は人との差違ばかりを感じ、各自が断絶し、孤立した自己同士にしか出会えません。

暗闇の世界にて、人と人は、疲れた心身を癒し、暗闇を共有することで、むしろ孤独から救われるのです。

  (定森恭司)

コミュニケーション能力


昨今、コミュニケーション能力の重要性が叫ばれていて、そのことで、深刻に悩む若い人も多いようにみうけられます。

そもそもコミュニケーションとは、相手があって成り立ち、相手との協働によって、言葉と態度(身体的表現)によってすすめられていくものだと思う。したがってうまくやりとりができていないときは、お互いにその責任があると思うのだが、往々にして「強い立場」の人(と思っている人)が相手の伝えようとしていることが分からないときに、「おまえのいっていることはわからない」「ちゃんとわかるように話せ」「コミュニケーション能力がないやつだ」と決めつけているのではないか。あるいは「こっちのいっていることが何でわからないのだ」と叱責したりしているということがおきていないだろうか。

本来ならば、「申し訳ありませんが、私の狭い理解の幅では、あなたの伝えようとしている事がわかりません。どうかもう一度表現していただけませんか」、あるいは、伝えた筈の人が「私のあなたの理解が足りなくて、あなたにわかるようにうまく表現できませんでした。もういちど表現してみます。」ということではないでしょうか。

お互い違う世界で生きてきて、たまたま今こで出会っているにすぎないので、「自分流」だけでは分かり合えなくて当然かもしれない、というところから出発する必要があると思う。いってみたら、コミュニケーションとは異文化交流。分かろうとする努力と、伝えようとする意欲こそ、コミュニケーション能力だと思う。

(定森露子)