心的現実と客観的現実

「心的現実」は、「直接体験」そのものではありません。「直接体験」は、瞬間・瞬間が非連続的に生成消滅する現象世界のことです。「直接体験」の世界は、窮極的には、量子論の描くように瞬間・瞬間が生成消滅する世界であり、諸行無常の世界であり、ヘラクレイトスの説く万物流転する世界であり、一時も静止することなき無常の世界なのです。

こうした「直接体験」に対して、「心的現実」とは、俗に私たちが「経験」と呼ぶものに当たります。実は、「経験」に基づく世界は、多くの人が考えているような「客観的世界とは実は異なります。「心的現実」の世界とは、非連続的連続を繰り返えす直接体験の断片同士が、融合・排除・抑圧・加工などのプロセスを経て再構成された「心的世界」のことなのです。「経験的世界」とは、刻々創り出されている「心的世界」のことなのです。「心的現実」は、主観性の関与を排除しきれない「心的世界」ですから、人が異なると、たとえ同じ場所、同じ時間に、同じ出来事に出会ったとしても、異なる心的現実が構成されるのです。どちらが正しい客観的現実を語っているかと、多くの人が、とても激しい対立になるのも、実は、こうした心的現実の差異が根底にあるためと考えられます。
もし私たちが、もっと「客観的現実」や「あるがまま」の世界に迫りたいと願うならば、主観的なるものが働くのをできるだけ排除する必要があります。

この時、二つのアプローチがあります。一つ目のアプローチは、観察主体が、できるだけ観察対象から離れ、より全体が俯瞰できるような視点になることです。自己と世界の両方をより全体的に包摂するような無限の球のような自己超越的視座となることです。西洋では、中世時代までは神の視座であり、デカルト・カントなどの哲学を経て確からは近代科学の視座といえます。そして二つ目のアプローチが、観察主体(我)の働きを、無限に小さくし、できるだけ窮極の小さな点に収斂するようにするなど、観察主体を無にする方向を探究しながら、すべてを「「物となって考え、物となって行う」(西田幾多郎)のように事物をあるがままに直覚する方向です。東洋的な瞑想にみられる方法といえます。

自己にとって、「自己と世界の出あい」そのものは、生命力あふれる動的体験です。そうしたアクチュアルな体験が、生きているという実存的感覚を自己にもたらしています。ホロニカル・アプローチでは、「ホロニカル体験」と呼ぶ、自己と世界の不一致と一致を含む一致の体験のことです。こうした「ホロニカル体験」そのものは言詮不及の体験といえます。

もっとも客観的な世界とは、「ホロニカル体験」と考えられます。ホロニカル体験時以外は、観察主体である「我」が、観察対象である自己や世界の出来事そのものからは分断され、主観性を帯びた色眼鏡で世界を再構成してしまうことを排除できないからです。 ホロニカル・アプローチでは、観察主体が、無限に拡大する自己超越的な球体的アプロートと、逆に無限に収縮して自己超脱的な点(ゼロ・ポイント)となるアプローチは、一見、相矛盾しながら同一の結果になると考えています。無限に収縮する点と無限拡大する球の矛盾から、すべての現象世界が起きているのが客観的世界と考えられるためです。

答えの見つけ方


人間は複雑な存在です。

それだけに人間の抱える苦悩に対して、こうすればより生きやすくなるというような、あらかじめ定められた正答などないと思われます。

しかしながら、次のことだけは明言できます。「より生きやすくなるような道は、その都度、その都度、必ず発見・創造されてくる」ということです。

ときどき人生の指南書がベストセラーになりますが、ある単一の理論だけでもって、すべての問題を解決することには無理があります。もともと、ある理論というものは、その理論が当てはまらない現象については、ノイズのようにして、あらかじめ除外することから成り立っています。そのため、指南書を上手に活用する人は、指南書では当てはまらない現象については、もっと別の手がかりをごく自然に模索しているものです。むしろいつまでもある理論にこだわる生き方は、そのうち生きづらくなってしまうものなのです。

それだけに、私たちはみんな、より価値のある解決策を、共に発見・創造するような場を求めているのです。心理相談に長くたずさわってきて、つくづくそんなことを思う今日この頃です。

(定森 恭司)

創造的人生を送るために


何も考えず、目の前の情報に振りまわされ、過去も未来もない「今・ここ」を受動的に必生きていると、ひたすら社会に適応することばかりに“こころ”が奪われ、たとえ生きづらさを感じても、あたかも自分の努力の至らなさの問題のような錯覚に陥ってしまいます。

しかし、今・この時が、過去の歴史を含み、かつ未来が開かれてくる創造的世界の一瞬・一瞬であることに目覚め「今・ここ」を生きるならば、より創造的人生に向かって歩み出すことができるように思われます。しかし、そのためには、誰もが背負っている歴史の悲哀を知ることが大切なように思われます。

(定森恭司)

意識と物質

意識と物質の2種類があるのではなく、森羅万象はすべて心的性質と物質的性質という一見すると相対立しているようなものが、実は不可分同一なものとしてに立ち顕れているというとらえ方があります。

“こころ”というものと付き合いながら長年研究し続けてくると、「やっぱりそうだなあ」という実感が強まってきています。

この実感が強まってくると、私たちは、むしろ心的なものと物質的なものを分けて考えることによって、本来のあるがままの世界をとらえ損ねているのではないかという考えに変化していきます。

(定森恭司)

共に変化する関係の構築

相手を変えようしても上手くいかないときには、自らが変容すると相手も変容するとよく言われます。しかし、こうした変容のプロセスをよくみていくと、相手が変容するのでなく、自分と相手との関係自体の変容が、相手の変容をもたらしていることがわかります。無論、上手く変容しない場合もありますが、人間関係が上手くいく場合とは、関係自体の変容が常にあるためといえます。

相手を変えようとしているときというのは、自分は問題ではなく、相手が問題だと外罰的になっています。しかしこうした態度は当然のこととして相手には強い警戒心をもたらします。しかしながら、自分も多少なりに態度を変えることによって、問題を問題として扱っていた関係そのものに小さな変化が起きて、やがて局所的変容を可能とする新しい関係の成立が、やがて大きな変容につながっていき、問題自体が変容していくわけです。

人間関係における変容には、ひとりひとりの人に知らずのうちに取り込まれていた「常識」「健常」「普通」「正常」「善」「正しい」「正義」の思考の枠組み自体の変容が迫られていると考えてもいいでしょう。

(定森恭司)

非連続的連続


実は、過去も未来もどこにもありません。本来、今・この瞬間しかないのです。今・この瞬間に過去が含まれ未来が開けてくるのです。一瞬・一瞬が非連続的に連続しているのです。

しかもその一瞬・一瞬において、 世界は自己に働きかけ、自己も世界に働きかけています。自己も世界も非連続的に絶え間なく変化し続けているのです。

昔の日本人は、こうした世に、「無常」を感じてきたといえます。

(定森恭司)

過去・現在・未来の捉え方

過去に受傷した“こころ”の傷に、いつまでも拘泥したままの現在を生きるのか、それとも未来への希望を含んだ現在を生きるかは、人生の歩み方に大きな差異をもたらします。

過去に受けた“こころ”の傷の治療、修復や回復に執着するよりは、過去の問題は問題として直視しつつも、一旦意識野の外に置き、近い将来に達成見込みがあり、かつ実行可能な目標に向かって現在を生きていく方が、よい生き易い人生への転機となることもあるのです。

過去に支配された現在でもなく、未来を夢想ばかりする現在でもなく、過去を含みながらも未来が開かれてくる今・この時を自分自身の足下をしっかりと見定めながら着実に歩む姿勢が大切といえるのです。

(定森恭司)

物語の源

読書感想文を苦手とする子どもが結構います。しかし苦手とする子の中には、読書が嫌いでない子も多くいます。アニメ漫画であろうと本を読んでいた時は夢中になっていたにもかかわらず、いざ書き言葉にすることを求められると、身構えてしまい文字が浮かばなくなってしまうのです。感想文を意識した途端、思考が停止してしまうのです。読書体験を書き言葉に変換するところで活動が停止してしまうのです。

しかしそんな子どもたちでも、書くという意識から一旦気持ちが離れられるように周囲が配慮し、自由な会話が許される雰囲気の中で、どんなストーリーだったのか、登場人物にどんなことを感じたかなどについて会話言葉で話すことをサポートしていくと、読書体験を自分の言葉で語りだす子どもがほとんどです。もしこのとき、聴き手が子どもの語った言葉をメモにしていくなどして、後でそのメモを子どもに見せて、メモを参考にして読書感想文を書くことを勧奨すると、子どもの多くが感想文を書くことができるようになります。

こうした出来事は、子どもの読書感想文の例に限りません。
直接体験を語ろうとするとき、外我が主要な意識の主体として作用しはじめる前に、まずは内我が外我に先行して意識の主体として働くことが大切です。内我の先行がないまま外我が直接体験を語ろうとすると、直接体験は途端に生き生きとした色合いを失います。外我は因果論的な時系列的報告は得意としますが、感情や感覚そのものを語ることを苦手とします。その結果、外我による自己表現からは情緒的な色合いがなくなります。一方、内我は直接体験を夢のような表象、感覚的なものや情緒的なチャンネルによってあるがままに直覚しようとします。こうした内我の働きとの協働がないまま外我が観察主体となって自己や世界を観察対象として観察すると、分析的、分別的、論理的に外的世界の現実について語ることはできますが、内我による内的世界の現実が脱落してしまうのです。

内我によって統合的に再構成された内的世界無き外我による観察は、事実だけ陳述した無機質的な観察日記にしかなりません。主観が自己や世界から外に排除された語りとなるのです。「私は、晩ご飯を食べてから、○○という本を読んで寝ました」という語りです。自己と世界が物化(ものか)されてしまうのです。自己と世界が物化されたとき、自己と世界の物語は生命力を失ってしまうのです。ドラマチックな人生の展開のためには、直接体験を直覚する内我による内的世界が関与しなくてはならないのです。

恐ろしいのは、一般化された既知の理を内在化する外我によって内我が情報化社会の浸透とともに、すごい勢いで管理・支配されはじめていることです。そのため内我は個性的な物語を上手く語れないストレスを抱え込むとともに、生き生きとした人生をもたらさない自己や世界に対する破壊的衝動や内的激昂性を高めはじめていることです。

外我が、一般性・普遍性・統一性・規範性・迅速性・効率性を強く求められる一方で、内我が、突如として切れやすくなってきていることです。

(定森恭司)

対人関係について

ホロニカル心理学では、対人関係を、「私の意識」と「他者の意識」といった主語的関係だけではなく、それぞれがひとつのにおいて、自律に存在する「自己」と「他己」として相互交流し、ひとつの場を協働的に創りだしながら、かつ、それぞれが新たな自己(他己)に変容しながら、再び新たな場を創りあげあっている動的な関係として場の立場から捉え直していきます。

「私という小宇宙」と「他者という小宇宙」が衝突し相互包摂関係を持ちあいながら新たな宇宙(場)を形成しあっている関係として捉え直しているわけです。

「自己」と「他己」とは、ただ単に自律独立した関係ではないのです。「自己」と「他己」は、それぞれ個性的な存在でありながらも相互包摂関係のうちに、「自己が他己を包摂し新たな自己」となり、「他己が自己を包摂して新たな他己」になりながら、「新たな一つの場」を創りあっているといえるのです。

場が対人関係に影響し、対人関係に影響しているのです。

(定森恭司)

ねば思考について

「ルールは守らなければならない」「泣き言を言わずに頑張らなければならない」など、思考の特徴のひとつに「○○ねばならない」という「ねば思考」と言われるものがあります。

そして、こうした「ねば思考」に対して、もっと「ねば思考」からの拘束から離れ、「もっと自由になりましょう」というトーンが巷ではよく言われます。

しかし、ここでそれこそ「注意しなければならない」ことがあります。

決して、「ねば思考」のすべてが悪いわけではないことです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づきます。「ねば思考」においても同じです。実感を伴って自ら「○○ねば」という時は、自覚をもって自らの使命を果たそうとする時であり、むしろ奨励されます。しかし、心的症状や心的問題などの要因になると思われる「ねば思考」は、内発的動機や自ら腑に落ちているという実感もないまま知らずのうちに「ねば思考」への服従を余儀なくされている思考の枠組みです。こうした場合は、再度、自己点検してみる必要があります。

いずれにせよ、実感の裏付けを伴う自律的な「ねば思考」と、実感なき他律的「ねば思考」の2つを区別する必要があるのです。

(定森恭司)