意識と物質

意識と物質の2種類があるのではなく、森羅万象はすべて心的性質と物質的性質という一見すると相対立しているようなものが、実は不可分同一なものとしてに立ち顕れているというとらえ方があります。

“こころ”というものと付き合いながら長年研究し続けてくると、「やっぱりそうだなあ」という実感が強まってきています。

この実感が強まってくると、私たちは、むしろ心的なものと物質的なものを分けて考えることによって、本来のあるがままの世界をとらえ損ねているのではないかという考えに変化していきます。
                                                  定森恭司

                

共に変化する関係の構築

相手を変えようしても上手くいかないときには、自らが変容すると相手も変容するとよく言われます。しかし、こうした変容のプロセスをよくみていくと、相手が変容するのでなく、自分と相手との関係自体の変容が、相手の変容をもたらしていることがわかります。無論、上手く変容しない場合もありますが、人間関係が上手くいく場合とは、関係自体の変容が常にあるためといえます。

相手を変えようとしているときというのは、自分は問題ではなく、相手が問題だと外罰的になっています。しかしこうした態度は当然のこととして相手には強い警戒心をもたらします。しかしながら、自分も多少なりに態度を変えることによって、問題を問題として扱っていた関係そのものに小さな変化が起きて、やがて局所的変容を可能とする新しい関係の成立が、やがて大きな変容につながっていき、問題自体が変容していくわけです。

人間関係における変容には、ひとりひとりの人に知らずのうちに取り込まれていた「常識」「健常」「普通」「正常」「善」「正しい」「正義」の思考の枠組み自体の変容が迫られていると考えてもいいでしょう。
                   定森 恭司
 

非連続的連続


実は、過去も未来もどこにもありません。本来、今・この瞬間しかないのです。今・この瞬間に過去が含まれ未来が開けてくるのです。一瞬・一瞬が非連続的に連続しているのです。

しかもその一瞬・一瞬において、 世界は自己に働きかけ、自己も世界に働きかけています。自己も世界も非連続的に絶え間なく変化し続けているのです。

昔の日本人は、こうした世に、「無常」を感じてきたといえます。
(定森恭司)

過去・現在・未来の捉え方

過去に受傷した“こころ”の傷に、いつまでも拘泥したままの現在を生きるのか、それとも未来への希望を含んだ現在を生きるかは、人生の歩み方に大きな差異をもたらします。

過去に受けた“こころ”の傷の治療、修復や回復に執着するよりは、過去の問題は問題として直視しつつも、一旦意識野の外に置き、近い将来に達成見込みがあり、かつ実行可能な目標に向かって現在を生きていく方が、よい生き易い人生への転機となることもあるのです。

過去に支配された現在でもなく、未来を夢想ばかりする現在でもなく、過去を含みながらも未来が開かれてくる今・この時を自分自身の足下をしっかりと見定めながら着実に歩む姿勢が大切といえるのです。

※定森恭司

物語の源

読書感想文を苦手とする子どもが結構います。しかし苦手とする子の中には、読書が嫌いでない子も多くいます。アニメ漫画であろうと本を読んでいた時は夢中になっていたにもかかわらず、いざ書き言葉にすることを求められると、身構えてしまい文字が浮かばなくなってしまうのです。感想文を意識した途端、思考が停止してしまうのです。読書体験を書き言葉に変換するところで活動が停止してしまうのです。

しかしそんな子どもたちでも、書くという意識から一旦気持ちが離れられるように周囲が配慮し、自由な会話が許される雰囲気の中で、どんなストーリーだったのか、登場人物にどんなことを感じたかなどについて会話言葉で話すことをサポートしていくと、読書体験を自分の言葉で語りだす子どもがほとんどです。もしこのとき、聴き手が子どもの語った言葉をメモにしていくなどして、後でそのメモを子どもに見せて、メモを参考にして読書感想文を書くことを勧奨すると、子どもの多くが感想文を書くことができるようになります。

こうした出来事は、子どもの読書感想文の例に限りません。
直接体験を語ろうとするとき、外我が主要な意識の主体として作用しはじめる前に、まずは内我が外我に先行して意識の主体として働くことが大切です。内我の先行がないまま外我が直接体験を語ろうとすると、直接体験は途端に生き生きとした色合いを失います。外我は因果論的な時系列的報告は得意としますが、感情や感覚そのものを語ることを苦手とします。その結果、外我による自己表現からは情緒的な色合いがなくなります。一方、内我は直接体験を夢のような表象、感覚的なものや情緒的なチャンネルによってあるがままに直覚しようとします。こうした内我の働きとの協働がないまま外我が観察主体となって自己や世界を観察対象として観察すると、分析的、分別的、論理的に外的世界の現実について語ることはできますが、内我による内的世界の現実が脱落してしまうのです。

内我によって統合的に再構成された内的世界無き外我による観察は、事実だけ陳述した無機質的な観察日記にしかなりません。主観が自己や世界から外に排除された語りとなるのです。「私は、晩ご飯を食べてから、○○という本を読んで寝ました」という語りです。自己と世界が物化(ものか)されてしまうのです。自己と世界が物化されたとき、自己と世界の物語は生命力を失ってしまうのです。ドラマチックな人生の展開のためには、直接体験を直覚する内我による内的世界が関与しなくてはならないのです。

恐ろしいのは、一般化された既知の理を内在化する外我によって内我が情報化社会の浸透とともに、すごい勢いで管理・支配されはじめていることです。そのため内我は個性的な物語を上手く語れないストレスを抱え込むとともに、生き生きとした人生をもたらさない自己や世界に対する破壊的衝動や内的激昂性を高めはじめていることです。

外我が、一般性・普遍性・統一性・規範性・迅速性・効率性を強く求められる一方で、内我が、突如として切れやすくなってきていることです。

※定森恭司

対人関係について

ホロニカル心理学では、対人関係を、「私の意識」と「他者の意識」といった主語的関係だけではなく、それぞれがひとつのにおいて、自律に存在する「自己」と「他己」として相互交流し、ひとつの場を協働的に創りだしながら、かつ、それぞれが新たな自己(他己)に変容しながら、再び新たな場を創りあげあっている動的な関係として場の立場から捉え直していきます。

「私という小宇宙」と「他者という小宇宙」が衝突し相互包摂関係を持ちあいながら新たな宇宙(場)を形成しあっている関係として捉え直しているわけです。

「自己」と「他己」とは、ただ単に自律独立した関係ではないのです。「自己」と「他己」は、それぞれ個性的な存在でありながらも相互包摂関係のうちに、「自己が他己を包摂し新たな自己」となり、「他己が自己を包摂して新たな他己」になりながら、「新たな一つの場」を創りあっているといえるのです。

場が対人関係に影響し、対人関係に影響しているのです。

※定森恭司

ねば思考について

「ルールは守らなければならない」「泣き言を言わずに頑張らなければならない」など、思考の特徴のひとつに「○○ねばならない」という「ねば思考」と言われるものがあります。

そして、こうした「ねば思考」に対して、もっと「ねば思考」からの拘束から離れ、「もっと自由になりましょう」というトーンが巷ではよく言われます。

しかし、ここでそれこそ「注意しなければならない」ことがあります。

決して、「ねば思考」のすべてが悪いわけではないことです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づきます。「ねば思考」においても同じです。実感を伴って自ら「○○ねば」という時は、自覚をもって自らの使命を果たそうとする時であり、むしろ奨励されます。しかし、心的症状や心的問題などの要因になると思われる「ねば思考」は、内発的動機や自ら腑に落ちているという実感もないまま知らずのうちに「ねば思考」への服従を余儀なくされている思考の枠組みです。こうした場合は、再度、自己点検してみる必要があります。

いずれにせよ、実感の裏付けを伴う自律的な「ねば思考」と、実感なき他律的「ねば思考」の2つを区別する必要があるのです。
(定森恭司)

自覚のための参照枠

自覚とは、「○○について意識し腑に落ちること」です。

したがって、自覚のためには、必ず「意識するもの」と「意識されるもの」の関係が介在します。

この時、「意識するもの」は自己ですが、意識する自己によって、「意識されるもの」には、「自己(自身)」と「世界」があります。

人間の場合、乳児期の意識には「自己」と「世界」の関係は未分化で混沌としていますが、発達とともに「自己」と「非自己化された世界」の間に境界ができて、両者が区別されながら「意識するもの」によって意識されるようになります。

自己は、「自己」と「世界」を意識の対象として意識するようになると、「自己」についての意識化を通じて自己自身についての自覚を深めるとともに、「自己が存在する世界」についての意識化を通じて世界についても自覚を深めることができます。そして、ついには、「自己と世界の関係」についての自覚も深めることができるわけです。

自覚について考える時、注意しなければならないことがあります。「意識するもの」が自覚を深めるための根拠をどこに求めるかです。

自覚のための根拠は、実在するものに求められなければなりません。実在するものに根拠を求めず、ただ考えだされた論理や空想を根拠にした時は、ただの妄信といえます。

実在するものとは、自己と世界の瞬間・瞬間の出会の直接体験といえます。瞬間・瞬間の直接体験が実在するもののすべてを包摂しているのです。

自己は、「自己」と「世界」がせめぎあいながらも「自己」と「世界」が同一にある直接体験を通じて、自己自身と世界が確かに存在すると実感しているのです。

「自己」と「世界」が時々刻々と生成消滅を繰り返している場所に、自己と世界が確実に実在しているのです。自己は直接体験を通じて、この事実を実感し自覚することが可能なのです。

こうした理由から、自覚の根拠は直接体験の実感に求めなければならないといえるのです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づくものでなくてはなりません。
(定森恭司)

「時」に目覚める

人為的に定められた時計の時間を生きるのではなく、自然の営む「時」を生きることが大切です。

「時」とは、刻々変化する無常の瞬間・瞬間のことです。
瞬間とは、「時間よ止まれと」時間を止めた静止画面のような瞬間ではなく、瞬間・瞬間が絶えず非連続的に連続的に変化し続けていく「永遠の今」ともいわれる生命の時に生きるということです。

生成と消滅の繰り返しの中で、生きている瞬間の至福の感動に目覚めるような「感じらとられる時」のことです。
             (定森恭司)

神から自我へ 自我から自己へ

西洋は神から自我への覚醒が歴史をつくった。しかしこれからは、自我から自己への覚醒の歴史をつくる必要ある。

この点、もともと東洋は無我が自己であり、無我から自我を確立していくことが歴史をつくった。しかしこれからは、自我から再び自己を回復する歴史をつくる必要がある。
 
自我から自己の覚醒の課題を背負っているのが西洋で、自我から自己を回復する課題を背負っているのが東洋の課題といえる。 
  (定森恭司)