現実とは?

現実とは、既に発見・創造されたものと、未だ発見・創造されていないものから成り立ています。いま、この瞬間に、過去が含まれ、そして未来が開かれていくのです。 (定森恭司)

写真に撮れる世界と撮れない世界

内的世界と外的世界の区分をちゃんとつけられるようになっていくことはとても大切です。両者の間に一線を引けるようになった上で、両者が一致することを求めることも大切になります。生きる道の手がかりを求めて内的世界だけにモノローグ的になると、内的世界はますます外的世界から遠のき、内的世界への没入状態かた外的世界に踊ることがとても困難になります。といって外的世界ばかりに生きる手がかりを求めばかりいても空疎な幻しかありません。

外的世界は写真に撮ることのできやすい可視化可能な世界ですが、内的世界そのものは誰も写真に撮ることのできない不可視の世界といえます。前者は観察主体と観察対象が切り離された観察主体優位な世界ですが、後者は観察主体と観察対象が触れあい自己と世界が一致しやすい世界といえます。 (定森恭司)

ホロニカル心理学の立脚点 “こころ”とは?

今の心理学は、人の営みを一般化された原理や客観化された原理として語り続けることから抜け出し、生きる人の全一的な営みそのものを語るものへと変わっていく必要があります。

 

心理学は、人について、リアリズムの視点から、あたかも物の観察する時と同じような観察対象として、「自己」「他者」などを客体的に扱うのではなく、生と死、愛と憎しみに苦悩し、喜怒哀楽に揺れる個性的でアクチュアルな主体的存在として扱うようなものでなくてはなりません。  自己は、他者や世界とは関係なく存在するような孤立した観察対象などではありません。また他己にとっても、自己や世界は、ただの観察対象などでは決してありません。

 

生きているものを扱う以上、他者や世界から独立した存在として「自己」を客観化したり、客体化して扱うことは不可能なのです。観察しようとする行為そのものに、すでに必ず観察主体としての自己の特性が働いてしまうし、観察対象である自己や非自己(他者・世界)が観察主体の観察結果に影響を与えることを防ぐことができないのです。

 

自己が意識されるところには、必ず、自己でない何か(他者や世界)があります。自己が自己自身の存在を意識している時には、自己は同時に、非自己(他者・世界)を必ず意識しながら存在しるのです。自己と非自己が区別で意識されるところに自己と非自己があるといえるのです。しかも自己は、非自己(世界)との刻々の出会いのせめぎ合いの瞬間・瞬間において、常に自己であろうとしながら絶えず変容しています。自己は、非自己(他者・世界)と関係なく孤立して存在するどころか、実態は真逆で、自己は、非自己との関係の中でしか自己として存在し得ないといえるのです。

 

しかしながら自己と他者や世界が区分されるというのは意識作用によるものです。意識による錯覚ともいえます。そして、自己は他者や世界を自己内に包摂しようとして存在し、他者や世界もまた自己を他者や世界内に包摂しようとします。すべてがせめぎ合って存在しているのです。せめぎ合いながら、自己は、自己と世界と無境界的に一体化することを希求します。宗教はこうした希求からはじまります。  ところで、自己と非自己(世界)の間に何も区別もなく無境界ということは、一体、どうことでしょう。無境界ということは、自己と非自己(他者や世界)の区別や識別の意識が働いていないということです。すると、区別したり、識別したりする意識がはたいていない以上、自己も非自己(他者や世界)が有るか無いかということすら語ることができないことになります。区別したり識別するものがない限り、何かがあるとは正確には言えないのです。区別したり識別する意識が働けば、たちどころに自己万物が立ち現れる合われますが、作用する以前に、何があるかと問われれば、不問に付すしかないといえます。悟りを求める禅が言葉による分別を嫌い、自己と世界の無境界的な言詮不及の境地を求めるのも、こうした自他分岐以前、主客分岐以前の一切がすべての境地を求めるからといえます。

 

また多くの人は、自己と世界の無境界というテーマに触発されて、死のテーマを思い浮かべます。死とは、自己にとっては、非自己(他者・世界)も無くなることですから、これもまた無境界となることといえます。自己は、自己の死によって無になっていますから、自己にとって死とは、絶対無になるということになります。しかし、ある他己の死は、自己にとっては、非自己(ある他己以外の他者と世界)が存在する限り、絶対無とはなりません。相対的な生と死が交錯する悲哀に充ち満ちた絶対有の世界が、まだまだ展開することになります。ところが死は、あらゆる個物や万物にもあります。硬い物質でもいずれ解体していくことでしょう。星もいずれは消えます。窮極的には、すべては絶対無になるといえます。

 

絶対無とは、宇宙の始まり以前、世界のはじまり以前でもあります。ということは、結局は、絶対無から、すべてが立ち合われ、そして、すべてが絶対無になるということになります。

 

絶対無から、区別・識別されて意識される自己とか他者とか世界と呼ばれる現象が立ち顕れてきて、やがてすべは絶対無になるというわけです。  こうした絶対無とその顕れの現象こそが、ホロニカル心理学では、“こころ”の現象に相当すると考えています。      (定森恭司)

感性と理性

何かを意識するという行為が、全体から何か一部を切り取って、その選択した対象に集中することとするならば、無意識のままであるということは、いずれ意識化されるものを含んであるがままにあることであり、より全体的に生きていることにほかなりません。

意識を中心とした理性による合理主義的な判断や分析だけでは、むしろ死と生の狭間の中にいる人の生きる生々しさが失われてしまうのです。 理性だけでは、人生が空虚で味気ないものなりさがってしまうのです。 だから理性でもって無理に自分を変える必要はありません。考えて生きるのではなく、感じているところを考えることによって、より楽に自分らしく生きられる道が、自ずと開かれてくるのです。

理性は感性をコントロールするためにあるのでなく、感性を理解するためにあるのです。 (定森恭司)

自己と世界の一致と不一致

世界から誕生した「私」という存在は、瞬間、瞬間、「私」を産みだした世界自身に包まれて生きつつ、いずれ死んで世界自身と一体化していきます。

そして世界の中に生きる私は、世界の中に何かを感じながら、また何かを理解しながら生きています。

この時、「私」という存在ではなく、「私」という意識について、ちょっと考えてみると次のようなことに気づきます。

「私」とは、何かを感じたり、何かを理解したりする時に、その背景にいるいつも必ずいるような何かを意識している主体のようなものといえます。「我思う故に我あり」の「我」が「私」の意識にあたります。こうした「私」という意識があって、「私」という存在にもはじめて気づくことができるわけです。

しかし、この私という意識は、何かに無心になっている時に、すなわち「我を忘れている時」には、私という意識はなかったといえます。

無心の時とは、私と世界の関係が無境界的になってひとつになっています。私と世界の触れあいによる純粋な経験だけといえます。ホロニカル・心理学やホロニカル・セラピーでは、「直接体験」と呼んでいます。無心の時とは、直接体験そのものの時といえます。あるがままの時といえます。

しかし、無心の時以外は、すぐに、私という主体的な意識が、何かを見つけて、それを感じたり、それを他のものから区別しています。その結果が、私が観察の主体となって、何かを観察対象としているという関係を作り出しています。この時、私の意識の立場からすると、観察対象となるのは、世界ばかりでなく、私自身(自己)も観察対象になります。

何かを観察する時とは、観察対象となる世界は、私という観察主体の意識からは切り離されています。観察主体の私の意識が、私の意識以外を観察対象とするという関係になるわけです。しかし、こうした時には、世界と無境界という感覚はまったくありません。世界は私の意識とは切り離された私とは関係のない世界となってしまうのです。私と世界の関係が切断され、切り離されてしまいます。

また、私にとっては、観察対象となるのは世界ばかりではありません。私自身も観察対象となります。このことは、次のことをしてみると自覚できます。

まず手を合わせて合掌のポーズをとり、右手と左手のひら同士が触れあっているところを、何も考えないで、じっくりと落ち着いて感じてみてください。次に両手を離して、右の手のひら、左の手のひらをそれぞれ交互に眺めてみてください。

前者では、観察する私の意識は、両手の触れているところに一点集中していきます。その結果、観察する私が一体化し直接体験そのものになる方向といえます。一方、両手を開いて、左右の手のひらを観察する時は、私が、手のひらを観察対象として見ているという感じになります。私の意識が、世界から手を区別して、手という物を私が見ているという関係になります。この時、観察している私の意識は頭の中にあり、観察対象となっている物としての手との間には境界(空間的間)があります。

このようにして、私という存在(自己)は、無心になって、私と世界がすべて一体となって、ただ直接体験そのものとなっていても、何かを意識した途端、私という意識が主体となり、私自身や世界が客体となって2分されてしまうのです。こうしたことは、瞬時・瞬時に繰り返えされているのです。

私自身という存在を、私という意識と区別して自己と言いかえると、私は、自己と世界との一致・不一致を絶え間なく繰り返しているということになります。走っている馬を無心になって感動している瞬間と、そのことを、「私は、走っている馬を見た」という瞬間は刹那の違いといえます。こうした刹那の差異が、自己と世界の関係の一致と不一致をもたらしているのです。

そして、とても大切なことは、私という意識は、自己と世界と不一致になった時に生起するものであって、不一致でない時には、生起していないということです。私という存在は、普段、まったく意識されない時には、「無い」のです。しかし、何かを私の意識が区別して意識した時には、意識する私が、即座に点灯する光のようなものとして「有る」ように立ち現れくるのです。

ホロニカル心理学やホロニカル・セラピーでは、自己と世界の一致の瞬間の直接体験を大切にします。そして、自己と世界の不一致の直接体験が土台となって、自己と世界ができるだけ一致する方向に自己自身を変容させていくと考えています。私という意識が、自己と世界の関係ができるだけ一致することが増えるようになる方向に人生を歩むことが、生き易い人生を発見・創造することと考えます。

走っている馬に無心になって感動した体験が先にあって、「私、馬が走っているのをみてとても感動した」と語れるようになるような生き方が大切と考えており、「走っている馬をみて感動しようとしても無理」と考えるわけです。西田幾多郎という哲学者がいっているように、「私があって経験しているのでなく、経験があって私がある」といえます。「感じるところを考えることが大切」なのであって、「いくら考えていても感じることはできない」といえます。

観察する私の意識が、観察対象となる私自身(自己)と世界との間で、不一致ばかりが続くような生き方は苦悩ばかりの人生となります。しかし、自己と世界の不一致に苦悩しつつも、自己と世界の一致の瞬間を、より多くでも直接体験として経験できるような生き方ならば、より幸せな方向に向かって生きることが可能となると考えているわけです。
(定森 恭司)

脳と“こころ”

最先端の脳の科学的研究からは、「何かの影響」によって変化する脳の現象の神経生理学的な特徴や情報処理のプロセスなどを画像やモデル化して可視化することが可能な時代になりました。が、しかしそうした研究成果も、「何かそのもの」について研究しているわけではありません。そして、「何かそのもの」こそ、普通、“こころ”と呼んでいるものにあたります。

“こころ”そのものは可視化不可能ですが感じるものとしてあることがわかるものです。それだけに、普段可視化不可能と思っていたものが脳の研究を通じて可視的に表現されてくると、あたかも脳の働きが“こころ”そのものであるかのように錯覚してしまいます。しかしながら、“こころ”の現象のある一側面が脳の働きとして明らかになるといえても、“こころ”=脳とは言い切れません。

実は、“こころ”に関する研究において最も注意しておかなければならないことがあります。“こころ”の研究では、“こころ”の多様な現れの中の、一体、何を“こころ”の現象として観察対象として選ぶかというということです。多様な“こころ”に認知の働きを見ようとする人は、認知の働きのパターンを発見することができます。感情の働きを見ようとする人は、感情の働きのパターンを発見することができます。対人パターンを見ようとする人は、対人パターンを発見することができます。同じように、脳の働きを見ようとする人は、脳の反応パターンを発見することができるのです。そして、そのいずれも“こころ”の多層多次元な現れの一面を表現しているという意味では、別に間違っているわけでもないのです。

大切なことは、“こころ”の多様で複雑な現れを、そのままより全体的により統合的に理解していくことにあるといえます。 (定森 恭司)

“こころ”の実相と虚相

“こころ”の実相は、絶対無ではないでしょうか。しかし、絶対無としての“こころ”は、それを実感・自覚するものがない限りにおいて、それを語ることも不可能です。

“こころ”は、大乗起信論的表現でいえば、「忽然念起」的に顕れてきます。なんの前触れもなく、その理由や要因も明かでないまま、まずは、突然、動きだしてくるものとして顕れてくるのです。

しかも、立ち顕れてくる窮極的な原初・根源の揺らぎの瞬間においては、すべてが主客未分化で、いずれ揺らぎ自体を認識することになる主体自体も、原初の揺らぎの中に包摂されてしまっています。 ホロニカルセラピーでいう「自己と世界の一致」とは、忽然念起に起きる揺らぎの瞬間の直接体験といえます。

しかしこの瞬間も刹那後には、揺らぎの直接体験自体が対象と途端、認識する主体と認識される対象としての直接体験に二岐します。主客一体の一致が、主体との客体との不一致の関係に変転してしまうのです。しかし、この瞬間に、“こころ”の動きを直感することができるようになります。

本来、言詮不及だった“こころ”が、対象としての“こころ”(直接体験)と、直接体験を認識する主体としての“こころ”に二岐するのです。

認識主体から認識の対象となった直接体験は、あたかもそれが主体とは別の対象世界(客体)であるかのように思い込んでしまいます。認識する主体の意識野に映し出された対象世界が、あたかも客観的な現象世界であるかのように思い込むのです。
こうして作り出された認識の主体は、やがて観察者としての自己となり、観察対象としての自己及び世界のイメージを作りだしていきます。

始原的段階では、観察対象としての自己も世界も渾然一体となっていますが、次第に観察主体と観察対象としての自己と世界との3つに分岐していきます。

東洋的な“こころ”のイメージと、西洋的“こころ”のイメージは、実は、似て非なるものです。西洋の“こころ”の捉え方は、直接体験を認識する観察主体としての働きだけに“こころ”をみているといえます。それに対して、東洋の特に大乗仏教系の“こころ”の捉え方は、主体としての“こころ”という限定を遙かに超えたところにも“こころ”の動きをみているといえます。“こころ”=仏とみる「即心即仏」の捉え方などは、超脱的捉え方の究極といえます。

観察主体は、自己と世界の渾然一体の観察対象としての現象世界に対して、実にさまざまな万物や事象を識別・区別し、人間の場合、渾然一体の対象に対して、無限に名を与えながら現象世界を知ろうとします。生、死・・男・女・・悲しい、嬉しい・・山、川・・、牛、馬・・春・夏・・信頼、法・・仏、神・・・。すべてが自己も世界の区別も識別もなかった“こころ”が、森羅万象の世界に識別された上で再構築されているのです。

しかし、こうした再構築の流れも、徹底的に遡及するならば、すべてが、根源的一だったものが、あたかも縦横無尽に識別されているかのように錯覚していただけであったことに気づきます。 (定森 恭司)

生成生滅の原理について

自己は、遺伝子に代表されるように生命体としての基本点な性質を持つとともに、宇宙開闢以来のさまざまな情報を継承してきています。しかも自己の内には、今・現在、自己が顕在化している性質の以上に、自己の内には、幾多の潜在的な未知の可能性を包含しています。

未知の可能性の中には、必要や状況に応じて、今・現在の私(我、現実主体)の生き方や性質を破壊してでも、潜在的可能性を顕在化させていこうとする自己超越的性質を内包しています。自己とは、今の私(我、現実主体)の維持への関心以上に、自己の中に内包する潜在的可能性を、いかにして外界の世界との出会いの直接体験を通じて自己実現していくかの方に強い関心をもっているのです。したがって、自己が、私(我、現実主体)の生き方に変容を迫ることは、ごく自然な流れであっても、私(我、現実主体)が自己に変容を迫ることは、とても不自然な行為となり、さまざまな症状や苦悩の要因となります。

ところで、遺伝子を含むさまざまな宇宙開闢以来の情報とは、ホロニカル心理学では、H主体(理)に相当します。H主体(理)とは、自己にも世界にも含まれていますが、可視的に見えるようなものではありません。パターン、法則、真理、数学、公理、規範、摂理など、「理」という形でしかその働きが把握できない類いのものです。しかも、ホロニカル心理学では、IT(それ)と呼ぶもの以外の「理」は、すべて絶対的な理とはなり得ず、すべてのH主体は、IT(それ)との一致に向かって変容していくと考えています。

こうした限界があるとはいえ、自己は、世界との出会いの中で、できるだけ世界と一致に向かうH主体を発見・創造しながら自己自身を自己組織化しようとします。

人の場合、自然の摂理のようなH主体(理)ばかりでなく、歴史や文化が含む社会的H主体(理)を含む世界が、自己の自己組織化に関与してきます。そのため自己にとっては、世界とは、自己に無理矢理一致を迫ってくるものとして実感されます。しかし、自己は、自己に制限を迫ってくる世界に対して、自己と世界が一致する方向に、自己自身を変容させようとするばかりでなく、自己にとって世界がより生き易くなるように世界自身を変えていこうと世界にも働きかけます。
通常、人の場合、自然の摂理とともに文化・規範や思想・宗教や倫理的規範などのH主体(理)が、ある一定のパラダイムとなって自己自己組織化を制限してきます。その結果、ある一定のパラダイムに一致する自己自己組織化に対してはH主体(理)は促進的に作用しても、ある基礎のパラダイムと不一致となる自己自己組織化や世界の働きかけに対してはH主体(理)は制限的に作用します。

しかしH主体(理)そのものも歴史的社会的流れの中で変化していきます。そのため数々あるH主体のうち、どれが自己と世界の一致をよりもたらすかは、自己と世界の出会いの場によって異なってくるため、確率論的にある程度予測することはできても、それを完全に予測することは不可能といえます。

こうしてホロニカル心理学やホロニカル・セラピーでは、自己と世界との一致を高めていくようなパラダイムをもたらすH主体(理)の発見・創造がとても重要と考えてします。    (定森恭司)

こころの専門家とは誰のことか

専門家と非専門家とが対等の立場でワイワイガヤガヤと相互交流できる時に、もっともよき問題解決策が創発されるものです。

こころのことに関しては、心理学の専門家は、心理学に関しては非専門的な立場にある人のこころの可能性を広げることのできる存在でなければなりません。

こころのことに関しては、専門性の意義とは、心理学の専門家が門外漢外の人に対して、心理学の専知識を感化することにあるわけではありません。

こころのことに関する限り、こころの問題の問題解決の主体は専門家にありません。

こころの問題に関する限り、こころの問題を抱えている人自身が、自らの抱える心的問題に自ら解決していけるように支援できる程度において専門性の意義があるといえます。

こころのことに関する専門家とは、心理学に関しては非専門的であろとうとなかろうよと、その問題を抱える人の問題解決の主体性が回復したり、拡充・強化できる人でなければならいのです。

もっと正確にいうならば、心理学を学ぶ専門家は、こころの問題を抱える人が、自らのこころが問題解決の力をもっていることを信じている人である必要があるのです。  (定森恭司)

心的葛藤とは

内的現実主体の抱く、イメージ、欲求、要求、感情など非言語的な何かが、外我にとってあまりに受け入れ難い時には、外我は内的現実主体に対して受け入れがたい内的現実主体の直接体験の一部に対して防衛的になります。その結果、内的現実主体は、コンプレックスを抱え込むことになります。コンプレックスは、外我が内我に対して行う衛機制である、抑圧、切り離し、否認、反動形成、合理化、投影、分裂・排除によって形成されます。

外我と内我の不一致がコンプレックスをつくりだし心的葛藤となるのです。しかもこの時、心的葛藤自体が否認されると身体的症状にも転換されることもあります。

外我と内我が不一致となると、精神分析や分析心理学では、内的現実主体の抱くコンプレックスの外我への意識化を重視します。しかし、HTでは、意識化そのものよりも、外我と内我の不一致そのものを新たな適切な観察主体から俯瞰することによって、外我と内我のできるだけ一致する方向の模索の方を重視します。外我と内我が一致する方向への早道と思われるならば、場合によっては、コンプレックスそのものを不問に伏すことすらあります。意識化以上に外我と内我の一致を優先するといえます。       (定森恭司)