呼吸について

呼吸に意識を合わせることは、今・ここに意識を合わせることにほかなりません。

自己と世界の直接体験そのものに意識を合わせることもであります。
この時、呼吸以外のことに、身体的違和感を感じなくなり、かつ一切の雑念や想念が起きなくなるまで、ただひたすら呼吸に無心なることができれば、自己と世界の無境界的体験であるホロニカル体験を得やすくなります。

(定森恭司)

いろいろな気分に気づくことの大切さ

ある激情に“こころ”を奪われ、視野狭窄的状態になってしまうと、人生の選択肢が狭くなってしまいます。
例えば、「辛い」という気分に圧倒され、「自分はみんなから嫌われている」と思い込んでしまって被害的疎外感に常に“こころ”を奪われている人は、こうした自己照合の視点からいつも生きがちです。

しかし、こうした自己照合を、直接体験に対するほんの一部のフレームワークとして、一旦、脇に置き、「辛い」という気分以外の別の気分が直接体験からわき上がってくるのを待ちます。すると、「寂しい」「何を甘えたことをいっている」など、さまざまな、別の気分や自己照合のシステムが自ずと動きだしてきます。
その上で、異なるフレームワーク同士の対話などを求めていくと、ごく自然にこれまでとは異なった新しい生き方の選択肢が創発されてきたりします。

(定森恭司)

つくり笑い

辛いこと、悲しいこと、怖いこと、怒れることなど、“こころ”をかき乱すような出来事にいくら出会っても、なんでもないかのように、つくり笑いをする人たちがいます。“こころ”の奥で感じている本来の感情は、“こころ”の中の鍵付き金庫にしまい込んでしまったかのように振る舞うのです。そいや、金庫の鍵をしたことすら忘却してしまったかのようです。

カウンセラーは、声なき声に、じっと傾聴する立場にいます。その聞き手としてのカウンセラーが、語られる話の内容に触発されて、辛くなったり、悲しくなったり、怯えたり、怒れてきたりと、とても“こころ”忙しくなるのに、当の本人は、つくり笑顔のまま淡々と語り続けるのです。こうした時は、カウンセラーが感じる感覚と、面前の人の言動や仕種がとても一致せず、とても奇妙な感覚にカウンセラーは陥ります。

一般の人は、つくり笑顔に出会うと、こっちもつくり笑いをしなくては失礼ではないだろうかと思うものです。そのため通常の会話では、本当は笑う気にもなれない笑いを社交的に交わしあうことに終始します。しかし、こうした交流は、冷めた交流となり、人間関係が深まりません。特に、人と人との深いつながりを求められる場面では深刻な問題となりがちです。

つくり笑いをする人の多くも、“こころ”の奥との対話を避ける代償として、「本当の自分がわからない」「何か物足りない」「生きている実感がもてない」「いつも空しい」といった悩みを抱えていたり、さまざまな身体化された症状に苦しんでいます。しかし、そうでありながら、こころの奥に触れることへの抵抗としんどさを生体レベルで熟知し、心的葛藤に触れるような話を巧妙に避けてしまうのです。

実は、鍵つき金庫にしまい込む仕組みは、相当巧妙なこころの仕業が関与しているのです。それは意識的な行為というより、あまりの絶望や恐怖から、身を守るためのため、一種の自動安全装置が作動しているといった方がよいのです。

こうした人に対する心理相談では、“こころ”の奥の世界と向き合うための共同作業となります。しかし、“こころ”の奥には、絶望感・孤独感・噴怒などが潜むだけに、とても危険な共同作業ともなります。鍵付き金庫にしまい込んで鍵をしたことすら忘却した“こころ”の扉を開けるからには、お互いが相当の準備と覚悟を固める必要があるのです。

しかし、一旦、カウンセラーとの共同作業のための信頼関係と“こころ”の奥に向かう覚悟が生まれてきたならば、こころの扉を開けても可能な時というものがやってきます。準備が整うと、たとえ、“こころ”の深海からすまじいものが噴出してきても、しっかりと共同作業で抱え込むことができるからです。一時は、暗闇の世界に呑まれかかったり、絶望的気分に鳴咽したり、激情の嵐に“こころ”を奪われたりすることになりますが、その嵐を共同作業で抱え込みながら通り過ぎた時には、これまで味わったことのない世界が一条の光とともに開けてきます。それは、まさに死と再生のドラマから生還したといっても決して過言ではないような感動の出来事となります。

こうした体験を契機に、“こころ”の表層と深層がつながり、つくり笑いも消えていくのです。

(定森恭司)

知性的なものと感性的なもの

物事についての知的な理解というものは、思考の作用によって観察対象について分析・識別し、合理的に整理することへの関心といえます。そのため知的理解では、観察対象に対して観察するものが抱いている非言語的な感性的感覚のようなものに対する関心が欠落気味になります。

しかし知的理解というものは、非言語的なまだ意識化される前の体験を、言語に基づく思考によって分析・識別し、整理する行為といえます。脳の高次機能の働きによると思われます。しかし、言語の前の非言語的な体験は、世界に関係なく脳が勝手に創りだいているわけでありません。世界に関係なく、脳が世界のイメージを創りだしていては、自明性を失った幻覚となります。

脳は観察対象を分別する前に、自己が世界と触れあいに共鳴的に反応しているのです。脳は感性的に動かされているのです。

脳は、非言語的な感性的なものにまずは反応し、それを瞬時に育った文化がもつ言語によって情報を分析し識別し整理して、現象世界を再構成していると思われます。

知性的なものの前には、必ず感性的なものがあるのです。

(定森恭司)

こころの奥の暗闇

明るい楽天地を求めて、ソーシャルメディアをつかっていくら言葉を交わしても、人との深い絆は得られません。人と深い絆を結ぶには、時として、むしろ闇夜の世界に足を踏み入れる勇気がいります。

太陽が沈み闇夜の孤独に耐えざるを得なかった昔は、物思いにふけったり、何かを作ったり、祈ったり、唱えたりして、孤独と向き合うしかなかったと思われます。世界は、昔も今も光と影から成り立ち、闇夜は非日常生活という深みをもたらすものとして、光に照らされた日常生活の補償的な時空間をもたらしています。

しかし今日、人は闇夜の時空間の孤独に耐えることができず、一時の沈黙の間すら恐れて、情報機器を駆使して何かの情報に触れようとします。 しかしながら、暗闇を知らず、暗闇を畏怖することなく、何かを追い求めたところで、かえって孤独に耐える力を失っていくものです。

暗闇の孤独は、自ずと心の奧との対話をもたらします。そしてこうした暗闇をどこかで別のところで同じように感じている人々のことを思い、暗闇の世界によって、人は他者と出会いつながりを得ていると気づくます。 暗闇は言葉以前の世界であり、沈黙の世界です。言葉すら届かない暗闇の世界とは、永遠の世界への数少ない接近方法でもあります。 暗闇の世界とのつながりを失った現代社会のような喧噪世界では、人は人との差違ばかりを感じ、各自が断絶し、孤立した自己同士にしか出会えません。

暗闇の世界にて、人と人は、疲れた心身を癒し、暗闇を共有することで、むしろ孤独から救われるのです。

  (定森恭司)

意識とこころ

意識という時、それは無意識的なものを含むのか、それとも通常の人間の大人が行う思考や概念を形成するような意識レベルだけに限定するのかをまず明らかにする必要があります。また仮に広く意識を捉える立場でも意識的活動を生命活動に限定して考えるのか、それとも鉱物を含む無機物を含む世界全体にも意識化があると考えるのかも明らかにする必要があります。

ホロニカル心理学では、こころは、「空」と「絶対無」ととらえています。その結果、意識にも無意識にも、有機物にも無機物にも、こころの多様な顕れとみています。ただし意識については、自己と世界の出会いにあって、自己と世界を自己と非自己に区分するところに自己言及的自己意識として発生したもの考え、意識は、こころに含まれるものであっても、意識=こころとは考えていません。

意識活動は、脳と深く関係しますが、脳=こころでもありません。脳はこころに反応するものであっても、脳がこころを創り出しているわけではありません。こころは脳に作用し、脳は生命活動と意識活動を維持します。

生命活動がなくなれば、脳の活動も停止し、意識活動もなくなり、身体的自己も生滅すれば、すべて、絶対無、空となります。

(定森恭司)

自己意識と対象認識の関係

人の観察主体が、何かの対象について認識するという時、それはただ単に対象についてのみ脳が神経学的に認識しているということはなく、対象に関する認識には深く自己意識が関わっているといえます。しかし、万有法則的な硬直した科学主義や普遍主義に陥りがちの現代では、案外、このことが看過されすぎているといえます。

我々は、薔薇をみた時、その薔薇は、世界共通の植物学的に分類される薔薇をみているだけはなく、薔薇に関する過去の記憶を含めて知らずのうちに薔薇を見ています。そのため、もし薔薇をみる男性が、かつて恋い焦がれた女性に薔薇の花を贈り求婚したものの結果は無残な結果に落ちる体験をもっていたとしたら、彼にとっての薔薇は失恋に伴う哀愁を喚起する薔薇でもあるのです。こうしたところにこそ、生々しい生きた薔薇としての実存的意味があります。我々は、同じ薔薇をみながらも異なる世界を構築しながら見ているといえるのです。実は、対象に関する認識の背景には、こうした完全には客観化し普遍化しきれない固有の実存的レベルの自己意識の世界が深く絡み合ってくるのです。

日本人は、鈴虫に秋の風情を実感します。しかし日本的な風土と文化に育っていない西欧人にとっては、鈴虫の声は、別に秋の風情までもたらしません。

このように直接体験における実存的体験レベルでは、個人や異なる社会・文化の分だけ、自己意識の差異に分だけ。実に異なる多様な世界は日々構築され続けているのが、この世界に関する日頃の私たちの認識といえるのです。

(定森恭司)

悩みや心的症状が新しい人生の創造の源

悩みとか心的症状をきっかけに、心の内・外で起きてくる出来事をカウンセラーと共に観察していくと、心が悪循環する固定的パターンを何度も何度も繰り返していることが明らかになります。しかし、この悪循環パターンの発見が新たな心の変容のきっけともなります。

心は、普段、2つの顔をもっているかのように振る舞っています。2つの顔とは、「内面」と「外面」です。

心を内面に向かって観察していくと、心が意識から無意識にわたる多層性をもっていることに気づきます。深層方向に向かって、個人的無意識層、家族的無意識層、社会・文化的無意識層、生物学的無意識層とでも呼べるような重層的構造をもっているようです。構造といっても固定的にあるというより、状況に応じて臨機応変にいろいろな層が影響するといった方が実態に近い表現かもしれません。挨拶の仕方ひとつとっても、外国人からみれば、日本人は日本人らしく無意識のうちにペコペコしたお辞儀をしているものです。

一方、心を外面方向に向かって観察してみると、家族と関係する次元、学校や社会と関係する次元、民族や国と関係する次元、倫理や宗教などスピリチュアルなものと関係する次元などの多次元性をもっていることに気づきます。それぞれの次元において、どのように自己や世界との関係を認識しているかによって、心の振る舞いも異なってきます。「人など誰も助けてくれない。どうせ全部自分の責任さ」という考えをもっているか、「人は信頼に値するし、いざとなれば誰かが助けてくれる」という考えをもっているかは、日頃の他者や社会に対する生き方の違いとなって立ち現れてきます。

実は、頑固な悩みとか心的症状は、心の多層多次元にわたって固定的な悪循環パターンをもっているようです。この固定的な悪循環パターンが、自己と世界の一致を求めて心が変容していこうとする自然なプロセスを疎外しているわけです。そこで、このような場合には、どの層やどの次元でもよいので、また、たとえどんなに小さな変容でもよいので、悪循環パターンからの脱出を可能とするような道をクライエントとカウンセラーが模索し続けることになります。そして、たとえ小さな変容でも、ある次元・ある層でそれが発見されたならば、その最初の小さな適切な変容を、あたかも赤ん坊を育てるように丁寧に増幅・拡充していきます。すると、小さな変容の増幅・拡充の積み重ね作業は、やがて悪循環パターンで固定化・停滞化してしまっている他の層や次元に影響しだし、その後、心全体の変容につながっていきます。

悩みや心的症状が比較的軽い場合は、ひとつの悪循環パターンの変容で、多次元多層にわたる変容がごく短期間に起きるように思われます。
カウンセリングを通じて、こうした事実に日々出あっていると、心とは実に不思議な可能性を秘めているものだと思い知らされます。

特に悩みや症状・問題行動が、新しい人生の創造の契機となるのは驚きです。しかし、素直に心を観照してみれば、心とは、自己と世界の一致を求めているところに常に働いていることに気づくものだけに、むしろ当然のことといえるのかも知れません。

(定森恭司)