つくり笑い

辛いこと、悲しいこと、怖いこと、怒れることなど、“こころ”をかき乱すような出来事にいくら出会っても、なんでもないかのように、つくり笑いをする人たちがいます。“こころ”の奥で感じている本来の感情は、“こころ”の中の鍵付き金庫にしまい込んでしまったかのように振る舞うのです。そいや、金庫の鍵をしたことすら忘却してしまったかのようです。

カウンセラーは、声なき声に、じっと傾聴する立場にいます。その聞き手としてのカウンセラーが、語られる話の内容に触発されて、辛くなったり、悲しくなったり、怯えたり、怒れてきたりと、とても“こころ”忙しくなるのに、当の本人は、つくり笑顔のまま淡々と語り続けるのです。こうした時は、カウンセラーが感じる感覚と、面前の人の言動や仕種がとても一致せず、とても奇妙な感覚にカウンセラーは陥ります。

一般の人は、つくり笑顔に出会うと、こっちもつくり笑いをしなくては失礼ではないだろうかと思うものです。そのため通常の会話では、本当は笑う気にもなれない笑いを社交的に交わしあうことに終始します。しかし、こうした交流は、冷めた交流となり、人間関係が深まりません。特に、人と人との深いつながりを求められる場面では深刻な問題となりがちです。

つくり笑いをする人の多くも、“こころ”の奥との対話を避ける代償として、「本当の自分がわからない」「何か物足りない」「生きている実感がもてない」「いつも空しい」といった悩みを抱えていたり、さまざまな身体化された症状に苦しんでいます。しかし、そうでありながら、こころの奥に触れることへの抵抗としんどさを生体レベルで熟知し、心的葛藤に触れるような話を巧妙に避けてしまうのです。

実は、鍵つき金庫にしまい込む仕組みは、相当巧妙なこころの仕業が関与しているのです。それは意識的な行為というより、あまりの絶望や恐怖から、身を守るためのため、一種の自動安全装置が作動しているといった方がよいのです。

こうした人に対する心理相談では、“こころ”の奥の世界と向き合うための共同作業となります。しかし、“こころ”の奥には、絶望感・孤独感・噴怒などが潜むだけに、とても危険な共同作業ともなります。鍵付き金庫にしまい込んで鍵をしたことすら忘却した“こころ”の扉を開けるからには、お互いが相当の準備と覚悟を固める必要があるのです。

しかし、一旦、カウンセラーとの共同作業のための信頼関係と“こころ”の奥に向かう覚悟が生まれてきたならば、こころの扉を開けても可能な時というものがやってきます。準備が整うと、たとえ、“こころ”の深海からすまじいものが噴出してきても、しっかりと共同作業で抱え込むことができるからです。一時は、暗闇の世界に呑まれかかったり、絶望的気分に鳴咽したり、激情の嵐に“こころ”を奪われたりすることになりますが、その嵐を共同作業で抱え込みながら通り過ぎた時には、これまで味わったことのない世界が一条の光とともに開けてきます。それは、まさに死と再生のドラマから生還したといっても決して過言ではないような感動の出来事となります。

こうした体験を契機に、“こころ”の表層と深層がつながり、つくり笑いも消えていくのです。 (定森恭司)

過去を過去のものとする

強い外傷体験をもつ人たちは、抑圧・解離してきた過去のエピソードを想起するときを迎えると、あたかも過去が、今・現在であるかのような語り口や仕種となります。

そこで、トラウマ・セラピーでは、過去の出来事が、現在からみて、過去の出来事としておさまりがつくように、現在をサポートし続けることになります。

強いトラウマを背負っている人たちは、過去の辛い体験の記憶の侵入が、現在の自分の体験を歪めたり、奪取しないようにするために、意識的・無意識的に過去の記憶の加工・歪曲・否認・隔離・抑圧など、あらゆる自己防衛をフル活動させて生き延びてきています。しかしその代償として、ある過去と類似する場所や経験を極端に回避したり、過去を想起させるような一連の出来事に対して、あたかも何もないがごとく振る舞ったり、思考や身体を一時的に麻痺させたりします。そのため、急に、今・この時を生き生きと生きられなくなったり、表情を失ったり、時間感覚を失ったり、世界にベールがかかったりしてしまいます。あたかも今・再び、同じような経験にあているかのような反応を自動的にしてしまうのです。それほど、過去の外傷体験の想起が恐怖の対象であることを物語っているのです。

そこで、トラウマ・セラピーでは、過去の記憶と体験が、面接中のクライエントに侵襲してきても、カウンセラーが圧倒されずに、しっかりと今・現在は、安全と安心できるから大丈夫だという体験を獲得できるための存在として、そこに居続けることになります。

トラウマ・セラピーのプロセスは、地獄のような世界から、この世に生還するかのような展開となります。穏やかな空気の流れ、どこともなく聞こえてくる鳥のさえずり、2人の大変な作業を成し遂げたあとの、なんともいえない気の流れが生還した人を迎え入れます。その時、過去とはっきりと決別し、生まれ変わった瞬間をもたらします。 (定森恭司)

トラウマ(トラウマ・セラピー)とは、

「あの時の言葉がトラウマになった」と、多くの人が、「トラウマ」という言葉を日常的に使うようになりました。しかし、「トラウマ」という言葉は、人と時代によって随分使い方が異るように思われます。心理相談(心理療法、カウンセリングを含む)に40年近く携わっている者としては、特にトラウマという概念に対する社会の反応には、かなりの時間的変遷があるというのが肌感覚レベルでの実感です。何しろ、40年以上前の心理相談の現場では、「トラウマ」という言葉はほとんど使われることはなかったのですから・・・。

トラウマという概念が専門家の間で使われはじめたのは、確か阪神大震災後の被災者の方々に対する心的支援の方法を臨床心理士や精神科医等が必死に求めはじめた頃ではなかったかと思います。この時、アメリカのベトナム戦争による戦争体験とその精神的後遺症の研究から、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念が一気に日本に積極的に取り入られるようになったのです。また、その頃から、児童虐待のもたらす深刻な問題に対しても、トラウマからの研究も積極的になっていきました。その後、配偶者に対して暴力を振るうドメスティックバイオレンス(DV)や、デートにおけるDV、パワハラなどの領域でも、トラウマという切り口からの問題提起がされるようになりました。

アメリカや日本の医師を中心とした精神医学の領域では、米国精神医学会の「DSM」という診断基準でトラウマを扱うことが増えています。その定義では、死の危険に匹敵するほどの出来事に遭遇して、強い恐怖、無力感、絶望感が伴う状態への専門的概念ですので、極めて限定的使い方です。それに対して、今日、ちまたでは、「ストレスで、こころが傷ついた」という感じで、もっと広い意味で使われています。

そして恐らく、トラウマという言葉が日常的に頻発して使われるような生活の場に生きる人たちにとっては、ちょっとした相手の無理解に対する批判・不満の意味を暗喩して「トラウマ」という言葉を使う人を散見するようになってきました。この40年あまりを経て、誰もがトラウマという言葉にとても過敏になる社会になったといえます。トラウマという言葉が、新たなトラウマを生み出しているとすらいえます。

こころの現象に関して、心理学、臨床心理学や精神医学が作りだす専門用語が、その意味の奥深さや厳密性を失って、一種の流行語になってしまうと、社会そのものが、表面的な語感だけが喧噪語のように飛び交うように変質します。こうなると心理学用語や精神医学用語が悪しきレッテル貼りばかりを拡大し、人々の不安をかえってあおり、人々のこころの柔軟性や融通性を硬直化させていってしまいます。

大切なことは、「トラウマ」という言葉のもつ言質と奥深い意味です。表面的な言葉だけではとても言い表すことのできない苦しい気持ちや体験の原点に立ち返ることです。トラウマという言葉を使う立場にある人も聴く立場にある人も、人がトラウマという言葉で語りたくなるような生きづらさに耳を傾け、その苦悩を共にし、ほんの少しでもより生き易くなるような人生の道を一緒に発見・創造することの方を大切にすべきです。

社会で思われているように、こころの深い傷は、吐き出すことによって気持ちが楽になるような簡単な代物ではありません。むしろ語れば語るほど、脳神経学的な連鎖反応があって、かえって辛くなり、生き辛くなる危険性すらあります。そこで、こうした危険性を知っているカウンセラーやセラピストは、トラウマを対象としてたセラピーの研究と自己研鑽に励みます。そして、そこで学んだ「臨床の知」を生かしながら、「過去の出来事の記憶」が「今、現在のこころを支配」してしまう状態から、「現在から、過去を過去のものとし、「未来の開ける現在」に変容させていく作業に付き添おうとするのです。

人が、トラウマからいかに生き延びていくかは、クライエントやカウンセラーだけの問題でなく、みんなの問題といえるのです。
心理相談室こころ室長 定森恭司(臨床心理士)