いろいろな気分に気づくことの大切さ

ある激情に“こころ”を奪われ、視野狭窄的状態になってしまうと、人生の選択肢が狭くなってしまいます。
例えば、「辛い」という気分に圧倒され、「自分はみんなから嫌われている」と思い込んでしまって被害的疎外感に常に“こころ”を奪われている人は、こうした自己照合の視点からいつも生きがちです。

しかし、こうした自己照合を、直接体験に対するほんの一部のフレームワークとして、一旦、脇に置き、「辛い」という気分以外の別の気分が直接体験からわき上がってくるのを待ちます。すると、「寂しい」「何を甘えたことをいっている」など、さまざまな、別の気分や自己照合のシステムが自ずと動きだしてきます。
その上で、異なるフレームワーク同士の対話などを求めていくと、ごく自然にこれまでとは異なった新しい生き方の選択肢が創発されてきたりします。

(定森恭司)

コミュニケーション能力


昨今、コミュニケーション能力の重要性が叫ばれていて、そのことで、深刻に悩む若い人も多いようにみうけられます。

そもそもコミュニケーションとは、相手があって成り立ち、相手との協働によって、言葉と態度(身体的表現)によってすすめられていくものだと思う。したがってうまくやりとりができていないときは、お互いにその責任があると思うのだが、往々にして「強い立場」の人(と思っている人)が相手の伝えようとしていることが分からないときに、「おまえのいっていることはわからない」「ちゃんとわかるように話せ」「コミュニケーション能力がないやつだ」と決めつけているのではないか。あるいは「こっちのいっていることが何でわからないのだ」と叱責したりしているということがおきていないだろうか。

本来ならば、「申し訳ありませんが、私の狭い理解の幅では、あなたの伝えようとしている事がわかりません。どうかもう一度表現していただけませんか」、あるいは、伝えた筈の人が「私のあなたの理解が足りなくて、あなたにわかるようにうまく表現できませんでした。もういちど表現してみます。」ということではないでしょうか。

お互い違う世界で生きてきて、たまたま今こで出会っているにすぎないので、「自分流」だけでは分かり合えなくて当然かもしれない、というところから出発する必要があると思う。いってみたら、コミュニケーションとは異文化交流。分かろうとする努力と、伝えようとする意欲こそ、コミュニケーション能力だと思う。

(定森露子)