開かれた対話のもつ意味

人は人との対話を通じて、より広く深い自分自身(自己)に開かれていくことができます。

人は普段、自分自身(自己)と一致しない自分(我)をなんとなく感じています。それだけに人は自分(我)と自分自身(自己)が一致するように求めないでいられません。しかしこの時、人は、いくら自分(我)と自己自身(自己)との一致を独白的な対話にとって希求しても一致の境位を得ることはできません。独白的な対話には、自己と世界とのふれ合いの感覚が欠落しているからです。世界との出会い無き自己の底はブラックホールと化します。自己の底のブラックホールに向かっていくら自己自身を求めても、すごい吸引力に引き込まれ、ひらすら暗闇の奈落の底に落ちていくだけです。自分(我)が自分自身(自己)と一致するためには、非自己化されきた世界と触れあっている確かな手応えがいるのです。

自己が世界と触れあいの直接体験を実感する時こそ、自分(我)は自己自身(自己)の底と一致する実感を得ることができるのです。自分(我)と自分自身(自己)との一致の境位を実感するためには、非自己化された絶対的他者とのふれ合いによる一致が必要なのです。自分(我)が、自分自身(自己)と一致する確かな実感を得るためには、世界とはなんら接点も関係を持たない閉じた自己ではなく、世界に開かれた自己との対話の方向に一致を希求する必要があるのです。世界から閉じた自己の底でなく、世界に開かれた自己の底に、自分(我)と自分自身(自己)との一致の体感を得ることができるのです。

実は、自分(我)と開かれた自己の底における世界とのふれ合いをもたらす開かれた自己との対話とは、具体的には、自分(我)と自己と世界とのふれ合いの直接体験との対話にほかなりません。結局、自分(我)と自己と非自己(世界や他者)との3次元にたわる一致・不一致をめぐる対話こそが、“こころ”の暗闇から脱出する唯一の方法となります。

もし人が自己自身や世界・他者との一切の対話をやめる途端、自己は世界との接点を喪失し、永遠に閉じた自己となり、自らが自らのもたらす闇に怯えることになってしまいます。 (定森恭司)

「常識」と「常識」の戦いのいくえ

「私」の中には数限りない常識がある。しかしほとんどは意識することなく(身体に染みついているもの)、日々暮らしている。自分と違う常識に出会って始めて、自分にある常識に気づくものである。その時、おもしろいなあと好奇心を持って驚くか、ありえない、間違ってる、と否定するか、どちらかになるのではと思う。好奇心どうしの出会いなら、そこからまた新しいものがうまれてくるでしょうが、ありえない!おかしい!ものどうしであったら、そこではただ攻撃しあう決着のつかない争いになっていくのではないか。常識はそもそも論理的でなく全く感情的なものだと思うので、争いになったら、お互い論理的では勿論ないし、自分が正しいと思っているので決着のつきようがない。

結局はこの争いの決着は、「正しい・正しくない(論理)」ではなく「好き・嫌い(感情)」の問題だと認め、適当なところで折り合いをつけることしかない。気分はすっきりしないものが残るでしょうが、お互い様。
                                定森露子

対話の中で新しい神話を創発する

人は知らずのうちに神話的世界に生きています。宗教を否定し、合理的で客観的である科学的価値体を信じる人でも、神話が科学的価値に置き換わっただけの神話的世界に生きているといえます。

人は神話的世界に生きているため、それまで信じてきた価値体系や世界観を根底から揺さぶるような異文化に接触すると深刻な心的危機状態に陥ります。それでも危機をもたす異文化でも、それなりに消化・同化することができたならば、再び安定を取り戻すことができます。しかしながら、“こころ”の深いレベルを揺るがすほどの異文化の場合は、これまでの神話を意味づけていた言語体系や真理の枠組みと異質なものとなり、とても受け入れ難いものとなります。この時、これまでの神話的世界からの,抵抗は、言語的なものというよりは、よりで感情的、より衝動的なものとして表現されます。ひとつひとつの言語の識別や言語の価値を意味づける深層レベルでの非言語的表象世界がまったく相容れないためです。このことは、神をめぐって異なるイメージを抱き合うために苛烈な宗教戦争を繰り返してきた過去の歴史をみれば明かです。

A神話とB神話が衝突した時、A神話がB神話をA神話化しようとしたり、B神話がA神話をB神話化しようとすると、お互い生存をかけての激烈な対立となるのです。

しかし、激しい異文化接触の場合でも、A神話はB神話の影響をうけて、これまでのA神話の価値の体系的統合性を解体させながらも、より新しい統合的な価値体系であるC’神話を創造する場合があります。また、B神話も同じように、これまでのB神話の価値体系の統合性を解体させながらも、新しいC”神話を創造することがあります。A神話とB神話の異文化接触が、お互いより近似的な新しいC神話に向かう可能性をもったC’神話とC”神話を創発するわけです。

この時、C’神話にもC”神話には、共に微妙な差異を示しつつもA神話・B神話が弁証法的に再統合されています。

高度技術革新・高度情報化・グローバリゼーションの時代にあっては、世界中の多様な異文化接触に晒され続け、多くの人々の心的世界を揺さぶり続けます。 それだけにこうした多様な異文化接触においては、ある文化が他の文化を支配したり、統合することなく、お互いが異文化接触に伴う不確実性に耐えながらも開かれた対話のうちに、お互いが新しい神話を創り出し続けあっていくような関係づくりが望まれます。   (定森恭司)

いろいろな気分に気づくことの大切さ

ある激情に“こころ”を奪われ、視野狭窄的状態になってしまうと、人生の選択肢が狭くなってしまいます。
例えば、「辛い」という気分に圧倒され、「自分はみんなから嫌われている」と思い込んでしまって被害的疎外感に常に“こころ”を奪われている人は、こうした自己照合の視点からいつも生きがちです。

しかし、こうした自己照合を、直接体験に対するほんの一部のフレームワークとして、一旦、脇に置き、「辛い」という気分以外の別の気分が直接体験からわき上がってくるのを待ちます。すると、「寂しい」「何を甘えたことをいっている」など、さまざまな、別の気分や自己照合のシステムが自ずと動きだしてきます。
その上で、異なるフレームワーク同士の対話などを求めていくと、ごく自然にこれまでとは異なった新しい生き方の選択肢が創発されてきたりします。 (定森恭司)

知性的なものと感性的なもの

物事についての知的な理解というものは、思考の作用によって観察対象について分析・識別し、合理的に整理することへの関心といえます。そのため知的理解では、観察対象に対して観察するものが抱いている非言語的な感性的感覚のようなものに対する関心が欠落気味になります。

しかし知的理解というものは、非言語的なまだ意識化される前の体験を、言語に基づく思考によって分析・識別し、整理する行為といえます。脳の高次機能の働きによると思われます。しかし、言語の前の非言語的な体験は、世界に関係なく脳が勝手に創りだいているわけでありません。世界に関係なく、脳が世界のイメージを創りだしていては、自明性を失った幻覚となります。

脳は観察対象を分別する前に、自己が世界と触れあいに共鳴的に反応しているのです。脳は感性的に動かされているのです。

脳は、非言語的な感性的なものにまずは反応し、それを瞬時に育った文化がもつ言語によって情報を分析し識別し整理して、現象世界を再構成していると思われます。

知性的なものの前には、必ず感性的なものがあるのです。 (定森恭司)

新しい生き方の創造

家族文化、地域社会の文化や日本文化などは、人の価値観形成に深く影響し、社会適応を助ける一方で、個性的な生き方を拘束し不自由にさせる面があります。

そこで人は、より創造的に生きようとすればするほど、既存の価値観とどうしても戦わざるを得なくなります。心理相談でも既存の価値観と新しい価値観をめぐる破壊と創造のドラマが展開することがしばしばです。

 

しかし中には、外界の価値観に過剰適応しすぎてしまっている人たちがいます。こうした社会的仮面に同一化してしまった人たちは、社会的価値観の受動的順応の代償として、仮面の下の「内なる我」は、顔なしで、空っぽの自分しかないと感じています。しかし、こうした人たちへの心的支援でも、「内なる我」が微かに感じている抵抗感や疑問などのうごめきに焦点を合わせ、その中でも自己充足的に感じる動きの増幅・拡充を図っていくと、自ずと新しい生き方の兆候を発見・創造する契機とすることができます。

うごめきは、最初はうまく言葉で表現できるようなものではなく、直感的で感覚運動的な動きとして体感される類いのものです。本来の自己を感じる時というものは、言葉以前の直接体験的な体感を得ている時といえます。非言語的な感覚運動的うごめきを実感している時なのです。

自己の直接体験内もうごめきを実感・自覚できるようになると、その後の新しい外界とのかかわりへの移行は意外にスムーズに進行します。こうしたうごめきの実感と自覚がない時には、いくら変化しようとして腑に落ちるような充足感がもてず、頭だけが空回りし悪戦苦闘することになります。腑に落ちる新しい生き方の発見・創造とは、自らが納得しているだけに、とてもその人にとっては生き易い人生の生き方となります。 (定森恭司)

開かれた対話

語る言葉が相手にスムーズに伝わるためには、語る言葉の意味するところ、言葉が誕生してくるところにある感覚が、相手に了解される必要があります。語る者と相手の間にあらかじめ共通感覚が必要になるわけです。この共通感覚がないと、語る側には伝わっている手応えが失われ、語られている側は相手が一体何をいわんとしてるのか意味がくみ取れないもどかしさを感じることになります。こうした現象に陥ると、相手が目の前にいても、あたかも一芝居のような独白的語りになり、人や社会とつながっている感覚を喪失します。

実は、価値の多元化や個性化の滲透(しんとう)や高度情報化の進む社会は、人と人との間にあった生き生きとした共通感覚を解体する方向に向わせています。そのため、お互いの語りがモノローグ的になってしまって、お互いが一体何を内心で思ってるのか予測しがたく、場も読みにくいものとなってきています。その結果は、多くの人が、対人関係や社会的活動にストレスを強く感じるようになり、ひとりになった時、やっと心が安まるという感覚になってきています。しかし、あまりに社会から引きこもってしまうと、言葉がますますモノローグ的になり、人とのつながりが再び難しくなるという悪循環に陥ることになります。

どうやら大切なポイントは、了解しにくさからくる気まずさにめげず、できるだけ共通感覚を探し求める感じで、ゆっくり開かれた対話(オープン・ダイアローグ)が可能な場をもつことにあるように思われます。

心理相談の場は、そんな開かれた対話をする場といえます。     (定森恭司)

語ることの意味

語ることを奪われた人たちや語る力を与えられなかった人たちが、語ることができるようになるためには、まだ上手く語ることのできない言葉になる以前の感覚を、適切な言葉にしていく作業に付き添ってくれるよき聞き手を必要と思われます。

 

こうした聞き手を得れば、人は誰でも、ひとりよがりな語りから少しずつ変容していき、よき聞き手が増えれば増えるほど、語りの内容も、誰もが共有できる物語となっていくことができます。しかもこうした語りの変容は、語る言葉を奪われてきた人たちや語る力を与えられなかった人たちのこころの傷を回復させ、それまでの生きづらさを生きすいものに変化させていくこともできます。語り方は、言葉だけとは限らず、ダンス、音楽、絵、詩、写真、映像など、さまざまな表現手段があるといえます。

聞き手のある語りとは、人が生きている場に、命の息吹と歴史を与えることといえます。

(定森恭司)

コミュニケーション能力

昨今、コミュニケーション能力の重要性が叫ばれていて、そのことで、深刻に悩む若い人も多いようにみうけられます。

そもそもコミュニケーションとは、相手があって成り立ち、相手との協働によって、言葉と態度(身体的表現)によってすすめられていくものだと思う。したがってうまくやりとりができていないときは、お互いにその責任があると思うのだが、往々にして「強い立場」の人(と思っている人)が相手の伝えようとしていることが分からないときに、「おまえのいっていることはわからない」「ちゃんとわかるように話せ」「コミュニケーション能力がないやつだ」と決めつけているのではないか。あるいは「こっちのいっていることが何でわからないのだ」と叱責したりしているということがおきていないだろうか。

本来ならば、「申し訳ありませんが、私の狭い理解の幅では、あなたの伝えようとしている事がわかりません。どうかもう一度表現していただけませんか」、あるいは、伝えた筈の人が「私のあなたの理解が足りなくて、あなたにわかるようにうまく表現できませんでした。もういちど表現してみます。」ということではないでしょうか。

お互い違う世界で生きてきて、たまたま今こで出会っているにすぎないので、「自分流」だけでは分かり合えなくて当然かもしれない、というところから出発する必要があると思う。いってみたら、コミュニケーションとは異文化交流。分かろうとする努力と、伝えようとする意欲こそ、コミュニケーション能力だと思う。

(定森露子)

自己と世界を疎外する喧噪語

e38391e382bde382b3e383b3e381a8e690bae5b8af1 現代社会をけたたましく飛び交う情報は、喧噪語といえます。喧噪語は、何かを体験する前に人に情報を与えることによって、人をあたかもわかったような気にさせてしまいます。ある少年は語りました。「僕はインターネットなどを通じて、あふれる情報に触れているうちに、何もかも知ってわかったような気になっていた。それで、なんか人生が終わってしまったような気になっていた。でも、よくよく考えてみれば、僕は何も経験していない」と。そう、何かを直接体験したり直接経験することがないままにわかった気になるとは、生きているという実感すら奪いとられることです。わたしという主体が自己と世界から疎外されることといえます。しかしながら、実感なき情報は、ただの空想的観念にすぎません。決して、なまなましい現実とはならなりません。自己体験になんら結びつくこともない知識は人の助けにはならないといえます。

喧噪語に心奪われすぎては、実感なき知識や知的情報に執着し、とらわれながら人生をただ受動的に過ごすことになります。そうなると人生は、空虚で、無意味なものとなります。自己も世界もただの無機質に動きつづける機械的な物質的世界となります。自己も世界も生命なき物となってしまいます。煩悩すら自己や世界のものとならず、知的な理解対象の物となりかねないのです。

心理相談室こころでは、そうした主体の自己と世界からの疎外感を抱えて、多くの人が自己と世界と主体の一致の実感を求めてやってきているといえます。  (定森恭司)