現実とは?

現実とは、既に発見・創造されたものと、未だ発見・創造されていないものから成り立ています。いま、この瞬間に、過去が含まれ、そして未来が開かれていくのです。 (定森恭司)

子どもと大人の時間

小さな子どもは、団子虫を、なぜにあんなにも簡単にみつけられるのでしょうか?

どうも、大人が道を歩く時は、ほとんど目の前の景色以外の何かに“こころ”が奪われているからのようです。景色以外のことに“こころ”を奪われているのです。しかも、歩く行為と同じように半ば自動的・無意識的に“こころ”が何かに奪われてしまうのです。大人は、ただ歩いているつもりで、無意識的世界のわだかまりと知らず知らずのうちに対話をしているのです。「間に合うかな?」「早すぎるかな?」「行きたくないなあ」「早くあいたいなあ」とか、まったく関係のないことなどに思いをはせてしまうのです。こうした時は、外界より、内界に意識がとらわれているといえます。穏やかな太陽の日差しが肌にふりそそいでいたとしても、すずめが「チュッ、チュッ」とさえずりながら羽ばたいていても、まったく“こころ”の耳には届いていないのです。全ては内界に“こころ”を奪われているのです。こうした心持ちでは、当然のこととして団子虫はみつからないのです。

大人に比べて、子どもの“こころ”は自由無礙です。いや、自我がまだ未熟であるからこそ、外界と内界の世界の境界線は弱く、“こころ”は自由におもむくままといえます。子どもは、一瞬一瞬を生きることが大人より得意といえるのです。特に時間的観念から自由であり、空間的刺激に敏感に応答するのです。

皮肉なことですが、大人になるということは、子どものような一瞬一瞬に生きることが不得意になることのようです。大人は、時間的空間的な制約から自由になろうとすると、かなり意識的な努力をする必要があります。何もかも忘れて旅をする。山里に廃屋を買って、そこで都会生活から離れて自炊する。花見に行く。そうした努力の果てで、うまくすると一瞬の偶然の出来事のなかに“こころ”の自由を見い出すのです。なんと大人とは、境界のない世界、内界や外界のみにとらわれない世界、無垢な“こころ”の世界を見いだすのに苦慮していることでしょう。     (定森恭司)

瞬間について

「時間」について、ちょっと考えてみると、実に面白いことに気づきます。

「今実際にある時間」 とは「瞬間」しかないという事実です。どこにも「さっき」はなく、「これから先」もないのです。あるのは、「瞬間」だけという事実です。しかも、その瞬間・瞬間がまったく同じということはありません。瞬間・瞬間がまったく同じということは死んでいることにほかなりません。生きている人にとって、瞬間とは、刻々と変化していることといえます。

瞬間は、瞬間にして二度と取り返すことのできない過去となり、また、瞬間は、次の瞬間何が起きるか正確には誰も予測することもできない未来としてあるといえます。まさに、瞬間・瞬間に過去が含まれ未来が開かれるといえます。                                                                                            ( 定森恭司)

未来を創造する現在に含まれてある過去

自己の死とは、身体的な自己の死を意味します。

死を有限の身体的自己の死の意味だけでとらえるならば、死はすべてが絶対の無になることといえます。

しかしながら、ひとつの自己が、その輝く生のうちに作り上げ、創造したもののすべては、作り上げた造形物として、またその人の求めた心もすべて世界に包摂されて生き残っていきます。いま・ここの目の前に現前する世界とは、過去の歴史・文化の遺産そのものといえます。死者の復活とは、現在にまさに生きている過去の影響の自覚のことといえます。

世界の至るところに過去が今を形成しているのです。

あまりに当たり前の出来事だけに気づくことが案外難しいことといえますが、過去は未来を創造する現在として、現在に含まれてあるといえるのです。    (定森恭司)

一回限りの風景

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信号機や時間を気にしながら、ある道を、あるところに向かって、いつものように、いつもと同じ時間帯に歩いていると、日々、変化のない世界に生きている自分を思い知らされるます。自分だけなく、今歩いている道の風景も前と何ら変わりありません。唯一変化しているのは、漫然と過ぎた時間だけという気分です。こうした抑うつ気分に陥ると、この先の人生にも意味が見いだせなくなります。どうせ、この先の人生も、今の自分と世界の自動的な延長でしかありません。機械的に時の流れに流され、生きていることの確かな手応え感や意味を見いだせないまま不安と恐怖の対象でしかない死に向かうだけです。そうした人生と世界が、当たり前と思われます。

しかしながら、そうした「虚無」に陥った時は、今歩いている風景をもう一度見つめ直してみるといいかも知れません。

何かを発見しようとしたり、何かを意味を探そうとせず・・・力まず・・・ただ、あるがままに世界を、そっと眺めてみるのです。耳を澄ますのもいいでしょう。すると、どうでしょう、見ようとしていないと、逆に風景の方が、こっち側に自然になだれ込んでくる驚きの瞬間があります。この感覚を一度体感すると、そこには、それまでは毎日同じような風景が拡がっているよう思い込んでいた世界が、たった一度たりとも、同じ風景をみせていたことはないことに気づきます。これはまことに新鮮な驚きをもたらします。隣をふっと通りすぎた車も、前回の時にみた車と当然のことですが全く違うのです。時間に追われて歩いている自分の傍らを先ほどから通りすぎていた街路樹も、先週より、少しつぼみが膨らんでいるのです。空気の乾き具合や匂いや温度の感触も微妙に前回とは異なっているのです。音も世界もそうです。これまであまり意識されなかった鳥のさえずりも聞こえてきて、しかもそれは今・生きている小鳥が「今・ここの瞬間」で発したさえずりなのです。

そう、たった1回たりとも同じことが繰り返されたことなどない、一刻一刻変化している世界があるのです。あまりの当たり前すぎて、逆に気づかなくなってしまっていたのです。そして、一刻一刻変化する世界の森羅万象と同じように、一刻一刻変化しながら生きている自分の存在に目覚めます。

一刻一刻変化する自分と世界が、「ある」と言うこと自体が、まさに驚きの出来事なのです。      (定森恭司)