私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。
定森恭司

孤独な人生を分かち合う

人は誰もが、自分の人生の孤独と向き合って生きるしかありません。しかし、こうした人生の悲哀を、分かち合うことのできる仲間をもっていることも大切です。

自分の人生を誰かと取り替えることができないという個別性が、極めて個人的色彩の強い人生の物語を創り出します。しかし、他方では、誰もが、生まれた世界に向かって死にゆくということにおいて全く平等で公平な人生の物語を逃れることはできません。

しかしこうした人生の孤独と共通性を何気なく感じることのできる者同士が、人生の仲間となることができます。

人生を共に生きる仲間を得ると、人は自ずと、自分と他人の狭間や内的世界と外的世界の狭間に苦悩しながらも、ほどよい距離感をもった人生を生き抜くことができるようになります。 定森恭司

自殺願望について

「死にたい」という語りは、あたかも内なる私(内的現実主体)からわき上がる気持ちのように聞こえますが、実はそうではありません。そこには、自分で自分自身を否定するような不適切な価値観の影響が必ずあるものです。

ホロニカル・アプローチの視点からは、死にたいと語る人には、内なる私(内的現実主体)を観察している私(外我)の物事の見方の枠組みの中に、内なる私(内我=内的現実主体)を否定する価値観があることが明らかになります。私自身を観察する私の物の見方の中に、不適切な価値観(H主体:理)が内在化しているため、内なる私(内的現実主体)が否定され死にたくなってしまうのです。

本来、内なる私(内我=内的現実主体)は、刻々生成消滅を繰り返す自己と世界の出会いの直接体験を生命として自然に実感する存在です。ところがこうした自然な直接体験を体感する筈の内なる私(内我=内的現実主体)も、観察主体となる私(外我)から徹底的に否定されてしまうと、世界との生々しい接点を失ってしまいます。世界との生き生きとした接点を失った自己は、あたかも虚空に投げ出されたかのようなものです。こうなってしまうと、何んらかの助けがないと、どんどんブラックホールのような心の暗闇に引きずり込まれていってしまうのです。

大切なことは、内なる私の存在を否定するような間違った理(不適切なH主体:理)から徹底的に内なる私(内的現実主体)を守ることです。また自己と世界の接点の生命の躍動を内なる私(内我=内的現実主体)が直覚できるように支援することといえます。

理によって人は生きているのではありません。人には生きるための理の発見と創造が大切なのです。
定森恭司

2つの文化(常識)のぶつかりあい

①お互い様の文化
お互いがあたかも相手の悩みを自分のことのように感じながら悩みを分かち合い、お互いの心の痛みを察しあうことで支えあう文化。これを「お互い様の文化」とします。

②私中心の文化
「お互い様の文化」とは異なり、自分と他人の悩みは異なり、かつ個人的なものなので、お互いの関係はあくまで独立的であり、お互いの内面まではあまり踏み込まず、プライバシーを大切にして、相互の独立と自尊心を尊重し重視しようとする文化。これを「私中心の文化」とします。

現代は、①と②の文化による生き方が激しくぶつかりあっている時代といえます。特に、いまどきの日本人は、欧米化の文化の強い影響があって表層的には②の影響を強く受けてながらも、その一方では、①の生き方の影響を心の深層領域で根強く形成しながら育っています。しかも①と②では、価値観や常識が異なり、簡単にはひとつにはなりません。その結果、多くの人たちは①と②の常識のねじれ現象に遭遇して苦労しています。特に、個人としての生き方と公的な生き方をめぐる対立・混乱が激化しています。

時代の流れは、だいだい②に向かってきています。しかし、②の文化だけでは、人と人の関係があまりに無縁的社会になってきています。しかしだからといって、昔の①の時代に戻ってしまえば、集団や場ばかりが重視されて個が生かされなくなってしまいます。

大切なことは、個々の人々が、自分常識が他の人と異なることを自覚しながらも共存の生き方を模索し続けることを諦めないことと思われます。

世界の中で唯一かけがえのない存在として生きながらも、一方では、自己超越的な世界から誕生し、その世界としての一員としても生きている自己超越的存在としての存在に目覚めながら生きていくようなあり方が求められているといえます。
                                定森恭司

現実とは?

現実とは、既に発見・創造されたものと、未だ発見・創造されていないものから成り立ています。いま、この瞬間に、過去が含まれ、そして未来が開かれていくのです。 (定森恭司)

写真に撮れる世界と撮れない世界

内的世界と外的世界の区分をちゃんとつけられるようになっていくことはとても大切です。両者の間に一線を引けるようになった上で、両者が一致することを求めることも大切になります。生きる道の手がかりを求めて内的世界だけにモノローグ的になると、内的世界はますます外的世界から遠のき、内的世界への没入状態かた外的世界に踊ることがとても困難になります。といって外的世界ばかりに生きる手がかりを求めばかりいても空疎な幻しかありません。

外的世界は写真に撮ることのできやすい可視化可能な世界ですが、内的世界そのものは誰も写真に撮ることのできない不可視の世界といえます。前者は観察主体と観察対象が切り離された観察主体優位な世界ですが、後者は観察主体と観察対象が触れあい自己と世界が一致しやすい世界といえます。 (定森恭司)

自己と現実主体

自己は、私自身、己(おのれ)、自分、大きな私などいろいろな呼び方をされます。

ホロニカル心理学でいう現実主体も、私、我、自我、小さな言い表され方をされているものに相当します。

自己と現実主体の次のような差異は念頭においておくと良さそうです。

自己は現実主体と比較して、より潜在的で、より広く、より大きく、しかも多様性をもっているけれど、現実主体は、より顕在的で、より狭く、より小さく、しかも一点集中的であろうとすることです。

こうした差異があるため、自己との対話なき現実主体の自己決定は自意識過剰の独占的決定になりがちですが、自己の直接体験との自己照合に裏づけられた自己決定は、より場の現実に即したものになる可能性が広がるといえます。

自己と現実主体の対話が大切なのです。

この時、世界とは関係なく存在する自己の底を現実主体がいくら追い求めても、無限の暗闇世界に落ち込んでいくだけです。しかし自己の底に世界と触れあっている直接体験を直覚することができるならば、そこに人生の道を発見・創造することが可能になります。
(定森恭司)

意味を問う

私(現実主体)とは何者かと問うのでなく、世界とは、自己とはと問い、その意味を発見・創造することが大切です。 (定森恭司)

「常識」と「常識」の戦いのいくえ

「私」の中には数限りない常識がある。しかしほとんどは意識することなく(身体に染みついているもの)、日々暮らしている。自分と違う常識に出会って始めて、自分にある常識に気づくものである。その時、おもしろいなあと好奇心を持って驚くか、ありえない、間違ってる、と否定するか、どちらかになるのではと思う。好奇心どうしの出会いなら、そこからまた新しいものがうまれてくるでしょうが、ありえない!おかしい!ものどうしであったら、そこではただ攻撃しあう決着のつかない争いになっていくのではないか。常識はそもそも論理的でなく全く感情的なものだと思うので、争いになったら、お互い論理的では勿論ないし、自分が正しいと思っているので決着のつきようがない。

結局はこの争いの決着は、「正しい・正しくない(論理)」ではなく「好き・嫌い(感情)」の問題だと認め、適当なところで折り合いをつけることしかない。気分はすっきりしないものが残るでしょうが、お互い様。
                                定森露子

生き方の違い

自己と世界の出会いの直接体験を、自己自身が自己組織化していくプロセスに注目することが大切です。

すべての直接体験をあるがままに自己自身に取り込み自己組織化することが理想的な自己組織化といえます。しかし、実際にはそうは上手くいきません。まず多様な直接体験そのものを自己自身がすべて直覚すること自体が困難です。さらに直覚された直接体験を、適切に自己自身に取り込むことも簡単なことではありません。

しかもこうした自己が直接体験をあるがままに実感し自覚することが難しいという現実が、心的苦悩や心的問題をもたらします。直接体験と直接体験を自己自身に取りこもうとする主体との間の不一致が心的苦悩や心的問題の源なのです。

世界の多様なひとつの個性的あらわれとしてこの世に誕生した自己は、生まれ故郷でもある世界を自己自身に自己再帰的に取りこみながら自己組織化しようとします。そこで自己は自己以外の世界との出会いのさまざまな直接体験の断片を、できるだけにひとつの全体的で統合性のあるものとして取り込もうとします。しかしそのプロセスがいつもスムースにいくとは限りません。多様な世界のパターンの中から、ある特定でローカルなパターンばかりが積極的に取り込まれてしまって自己自身が知らずのうちに独善的になってしまう場合があります。また特定の直接体験の断片が強烈なトラウマ体験となるため、どうしてもすでに取り込まれた自己の全体から隔離されてしまう場合もあります。

しかしこうした自己と世界の不一致の直接体験も、新しい受け止め方をもたらすような新たな直接体験さえあれば、それまでは自力ではなかなか困難だった自己自身への統合化や再統合も可能性となります。

心理相談の場とは、まさにクライエントにとっては自己と世界の不一致となるはずのところが、自己と世界の一致の新たな直接体験をもたらす場となる必要があるわけです。カウンセラーがクライエントの抱える自己と世界の不一致に伴う心的苦悩や心的問題の直接体験を共有する時、クライエントとはこれまでの自己と世界の不一致となる筈の直接体験をカウンセラーと一致する直接体験を通じて、新たな自己組織化のパターンを発見・創造することが可能となります。クライエントとカウンセラーが共感的関係を構築しながら一致する直接体験を累積すればするほど、クライエントは自ずとこれまでとは異なる自己と世界の直接体験のパターンを取り込むことが可能となるのです。

自己は自己と世界の不一致の体験が累積していたとしても、自己と世界の一致の瞬間の直接体験を徹底的に基準とすれば、適切な自己組織化の方向に向かうことが可能です。この時、自己と世界の一致の直接体験との自己照合の中で、より腑に落ちる感覚、知覚、直感、思考とは何かを実感し自覚していくことが大切になります。もし自己が世界との一致の直接体験を重視せず、たとえ世界と不一致になったとしても自らの信念・思想等を基準にして無理矢理進もうとすると、世界の方がより危険にさらされることになります。 (定森 恭司)