答えの見つけ方


人間は複雑な存在です。

それだけに人間の抱える苦悩に対して、こうすればより生きやすくなるというような、あらかじめ定められた正答などないと思われます。

しかしながら、次のことだけは明言できます。「より生きやすくなるような道は、その都度、その都度、必ず発見・創造されてくる」ということです。

ときどき人生の指南書がベストセラーになりますが、ある単一の理論だけでもって、すべての問題を解決することには無理があります。もともと、ある理論というものは、その理論が当てはまらない現象については、ノイズのようにして、あらかじめ除外することから成り立っています。そのため、指南書を上手に活用する人は、指南書では当てはまらない現象については、もっと別の手がかりをごく自然に模索しているものです。むしろいつまでもある理論にこだわる生き方は、そのうち生きづらくなってしまうものなのです。

それだけに、私たちはみんな、より価値のある解決策を、共に発見・創造するような場を求めているのです。心理相談に長くたずさわってきて、つくづくそんなことを思う今日この頃です。

(定森 恭司)

創造的人生を送るために


何も考えず、目の前の情報に振りまわされ、過去も未来もない「今・ここ」を受動的に必生きていると、ひたすら社会に適応することばかりに“こころ”が奪われ、たとえ生きづらさを感じても、あたかも自分の努力の至らなさの問題のような錯覚に陥ってしまいます。

しかし、今・この時が、過去の歴史を含み、かつ未来が開かれてくる創造的世界の一瞬・一瞬であることに目覚め「今・ここ」を生きるならば、より創造的人生に向かって歩み出すことができるように思われます。しかし、そのためには、誰もが背負っている歴史の悲哀を知ることが大切なように思われます。

(定森恭司)

過去・現在・未来の捉え方

過去に受傷した“こころ”の傷に、いつまでも拘泥したままの現在を生きるのか、それとも未来への希望を含んだ現在を生きるかは、人生の歩み方に大きな差異をもたらします。

過去に受けた“こころ”の傷の治療、修復や回復に執着するよりは、過去の問題は問題として直視しつつも、一旦意識野の外に置き、近い将来に達成見込みがあり、かつ実行可能な目標に向かって現在を生きていく方が、よい生き易い人生への転機となることもあるのです。

過去に支配された現在でもなく、未来を夢想ばかりする現在でもなく、過去を含みながらも未来が開かれてくる今・この時を自分自身の足下をしっかりと見定めながら着実に歩む姿勢が大切といえるのです。

(定森恭司)

物語の源

読書感想文を苦手とする子どもが結構います。しかし苦手とする子の中には、読書が嫌いでない子も多くいます。アニメ漫画であろうと本を読んでいた時は夢中になっていたにもかかわらず、いざ書き言葉にすることを求められると、身構えてしまい文字が浮かばなくなってしまうのです。感想文を意識した途端、思考が停止してしまうのです。読書体験を書き言葉に変換するところで活動が停止してしまうのです。

しかしそんな子どもたちでも、書くという意識から一旦気持ちが離れられるように周囲が配慮し、自由な会話が許される雰囲気の中で、どんなストーリーだったのか、登場人物にどんなことを感じたかなどについて会話言葉で話すことをサポートしていくと、読書体験を自分の言葉で語りだす子どもがほとんどです。もしこのとき、聴き手が子どもの語った言葉をメモにしていくなどして、後でそのメモを子どもに見せて、メモを参考にして読書感想文を書くことを勧奨すると、子どもの多くが感想文を書くことができるようになります。

こうした出来事は、子どもの読書感想文の例に限りません。
直接体験を語ろうとするとき、外我が主要な意識の主体として作用しはじめる前に、まずは内我が外我に先行して意識の主体として働くことが大切です。内我の先行がないまま外我が直接体験を語ろうとすると、直接体験は途端に生き生きとした色合いを失います。外我は因果論的な時系列的報告は得意としますが、感情や感覚そのものを語ることを苦手とします。その結果、外我による自己表現からは情緒的な色合いがなくなります。一方、内我は直接体験を夢のような表象、感覚的なものや情緒的なチャンネルによってあるがままに直覚しようとします。こうした内我の働きとの協働がないまま外我が観察主体となって自己や世界を観察対象として観察すると、分析的、分別的、論理的に外的世界の現実について語ることはできますが、内我による内的世界の現実が脱落してしまうのです。

内我によって統合的に再構成された内的世界無き外我による観察は、事実だけ陳述した無機質的な観察日記にしかなりません。主観が自己や世界から外に排除された語りとなるのです。「私は、晩ご飯を食べてから、○○という本を読んで寝ました」という語りです。自己と世界が物化(ものか)されてしまうのです。自己と世界が物化されたとき、自己と世界の物語は生命力を失ってしまうのです。ドラマチックな人生の展開のためには、直接体験を直覚する内我による内的世界が関与しなくてはならないのです。

恐ろしいのは、一般化された既知の理を内在化する外我によって内我が情報化社会の浸透とともに、すごい勢いで管理・支配されはじめていることです。そのため内我は個性的な物語を上手く語れないストレスを抱え込むとともに、生き生きとした人生をもたらさない自己や世界に対する破壊的衝動や内的激昂性を高めはじめていることです。

外我が、一般性・普遍性・統一性・規範性・迅速性・効率性を強く求められる一方で、内我が、突如として切れやすくなってきていることです。

(定森恭司)

ねば思考について

「ルールは守らなければならない」「泣き言を言わずに頑張らなければならない」など、思考の特徴のひとつに「○○ねばならない」という「ねば思考」と言われるものがあります。

そして、こうした「ねば思考」に対して、もっと「ねば思考」からの拘束から離れ、「もっと自由になりましょう」というトーンが巷ではよく言われます。

しかし、ここでそれこそ「注意しなければならない」ことがあります。

決して、「ねば思考」のすべてが悪いわけではないことです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づきます。「ねば思考」においても同じです。実感を伴って自ら「○○ねば」という時は、自覚をもって自らの使命を果たそうとする時であり、むしろ奨励されます。しかし、心的症状や心的問題などの要因になると思われる「ねば思考」は、内発的動機や自ら腑に落ちているという実感もないまま知らずのうちに「ねば思考」への服従を余儀なくされている思考の枠組みです。こうした場合は、再度、自己点検してみる必要があります。

いずれにせよ、実感の裏付けを伴う自律的な「ねば思考」と、実感なき他律的「ねば思考」の2つを区別する必要があるのです。

(定森恭司)

自覚のための参照枠

自覚とは、「○○について意識し腑に落ちること」です。

したがって、自覚のためには、必ず「意識するもの」と「意識されるもの」の関係が介在します。

この時、「意識するもの」は自己ですが、意識する自己によって、「意識されるもの」には、「自己(自身)」と「世界」があります。

人間の場合、乳児期の意識には「自己」と「世界」の関係は未分化で混沌としていますが、発達とともに「自己」と「非自己化された世界」の間に境界ができて、両者が区別されながら「意識するもの」によって意識されるようになります。

自己は、「自己」と「世界」を意識の対象として意識するようになると、「自己」についての意識化を通じて自己自身についての自覚を深めるとともに、「自己が存在する世界」についての意識化を通じて世界についても自覚を深めることができます。そして、ついには、「自己と世界の関係」についての自覚も深めることができるわけです。

自覚について考える時、注意しなければならないことがあります。「意識するもの」が自覚を深めるための根拠をどこに求めるかです。

自覚のための根拠は、実在するものに求められなければなりません。実在するものに根拠を求めず、ただ考えだされた論理や空想を根拠にした時は、ただの妄信といえます。

実在するものとは、自己と世界の瞬間・瞬間の出会の直接体験といえます。瞬間・瞬間の直接体験が実在するもののすべてを包摂しているのです。

自己は、「自己」と「世界」がせめぎあいながらも「自己」と「世界」が同一にある直接体験を通じて、自己自身と世界が確かに存在すると実感しているのです。

「自己」と「世界」が時々刻々と生成消滅を繰り返している場所に、自己と世界が確実に実在しているのです。自己は直接体験を通じて、この事実を実感し自覚することが可能なのです。

こうした理由から、自覚の根拠は直接体験の実感に求めなければならないといえるのです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づくものでなくてはなりません。

(定森恭司)

「時」に目覚める

人為的に定められた時計の時間を生きるのではなく、自然の営む「時」を生きることが大切です。

「時」とは、刻々変化する無常の瞬間・瞬間のことです。
瞬間とは、「時間よ止まれと」時間を止めた静止画面のような瞬間ではなく、瞬間・瞬間が絶えず非連続的に連続的に変化し続けていく「永遠の今」ともいわれる生命の時に生きるということです。

生成と消滅の繰り返しの中で、生きている瞬間の至福の感動に目覚めるような「感じらとられる時」のことです。

(定森恭司)

私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。

(定森恭司)

孤独な人生を分かち合う

人は誰もが、自分の人生の孤独と向き合って生きるしかありません。しかし、こうした人生の悲哀を、分かち合うことのできる仲間をもっていることも大切です。

自分の人生を誰かと取り替えることができないという個別性が、極めて個人的色彩の強い人生の物語を創り出します。しかし、他方では、誰もが、生まれた世界に向かって死にゆくということにおいて全く平等で公平な人生の物語を逃れることはできません。

しかしこうした人生の孤独と共通性を何気なく感じることのできる者同士が、人生の仲間となることができます。

人生を共に生きる仲間を得ると、人は自ずと、自分と他人の狭間や内的世界と外的世界の狭間に苦悩しながらも、ほどよい距離感をもった人生を生き抜くことができるようになります。

( 定森恭司)

自殺願望について

「死にたい」という語りは、あたかも内なる私(内的現実主体)からわき上がる気持ちのように聞こえますが、実はそうではありません。そこには、自分で自分自身を否定するような不適切な価値観の影響が必ずあるものです。

ホロニカル・アプローチの視点からは、死にたいと語る人には、内なる私(内的現実主体)を観察している私(外我)の物事の見方の枠組みの中に、内なる私(内我=内的現実主体)を否定する価値観があることが明らかになります。私自身を観察する私の物の見方の中に、不適切な価値観(H主体:理)が内在化しているため、内なる私(内的現実主体)が否定され死にたくなってしまうのです。

本来、内なる私(内我=内的現実主体)は、刻々生成消滅を繰り返す自己と世界の出会いの直接体験を生命として自然に実感する存在です。ところがこうした自然な直接体験を体感する筈の内なる私(内我=内的現実主体)も、観察主体となる私(外我)から徹底的に否定されてしまうと、世界との生々しい接点を失ってしまいます。世界との生き生きとした接点を失った自己は、あたかも虚空に投げ出されたかのようなものです。こうなってしまうと、何んらかの助けがないと、どんどんブラックホールのような心の暗闇に引きずり込まれていってしまうのです。

大切なことは、内なる私の存在を否定するような間違った理(不適切なH主体:理)から徹底的に内なる私(内的現実主体)を守ることです。また自己と世界の接点の生命の躍動を内なる私(内我=内的現実主体)が直覚できるように支援することといえます。

理によって人は生きているのではありません。人には生きるための理の発見と創造が大切なのです。

( 定森恭司)