物語の源

読書感想文を苦手とする子どもが結構います。しかし苦手とする子の中には、読書が嫌いでない子も多くいます。アニメ漫画であろうと本を読んでいた時は夢中になっていたにもかかわらず、いざ書き言葉にすることを求められると、身構えてしまい文字が浮かばなくなってしまうのです。感想文を意識した途端、思考が停止してしまうのです。読書体験を書き言葉に変換するところで活動が停止してしまうのです。

しかしそんな子どもたちでも、書くという意識から一旦気持ちが離れられるように周囲が配慮し、自由な会話が許される雰囲気の中で、どんなストーリーだったのか、登場人物にどんなことを感じたかなどについて会話言葉で話すことをサポートしていくと、読書体験を自分の言葉で語りだす子どもがほとんどです。もしこのとき、聴き手が子どもの語った言葉をメモにしていくなどして、後でそのメモを子どもに見せて、メモを参考にして読書感想文を書くことを勧奨すると、子どもの多くが感想文を書くことができるようになります。

こうした出来事は、子どもの読書感想文の例に限りません。
直接体験を語ろうとするとき、外我が主要な意識の主体として作用しはじめる前に、まずは内我が外我に先行して意識の主体として働くことが大切です。内我の先行がないまま外我が直接体験を語ろうとすると、直接体験は途端に生き生きとした色合いを失います。外我は因果論的な時系列的報告は得意としますが、感情や感覚そのものを語ることを苦手とします。その結果、外我による自己表現からは情緒的な色合いがなくなります。一方、内我は直接体験を夢のような表象、感覚的なものや情緒的なチャンネルによってあるがままに直覚しようとします。こうした内我の働きとの協働がないまま外我が観察主体となって自己や世界を観察対象として観察すると、分析的、分別的、論理的に外的世界の現実について語ることはできますが、内我による内的世界の現実が脱落してしまうのです。

内我によって統合的に再構成された内的世界無き外我による観察は、事実だけ陳述した無機質的な観察日記にしかなりません。主観が自己や世界から外に排除された語りとなるのです。「私は、晩ご飯を食べてから、○○という本を読んで寝ました」という語りです。自己と世界が物化(ものか)されてしまうのです。自己と世界が物化されたとき、自己と世界の物語は生命力を失ってしまうのです。ドラマチックな人生の展開のためには、直接体験を直覚する内我による内的世界が関与しなくてはならないのです。

恐ろしいのは、一般化された既知の理を内在化する外我によって内我が情報化社会の浸透とともに、すごい勢いで管理・支配されはじめていることです。そのため内我は個性的な物語を上手く語れないストレスを抱え込むとともに、生き生きとした人生をもたらさない自己や世界に対する破壊的衝動や内的激昂性を高めはじめていることです。

外我が、一般性・普遍性・統一性・規範性・迅速性・効率性を強く求められる一方で、内我が、突如として切れやすくなってきていることです。

※定森恭司

神から自我へ 自我から自己へ

西洋は神から自我への覚醒が歴史をつくった。しかしこれからは、自我から自己への覚醒の歴史をつくる必要ある。

この点、もともと東洋は無我が自己であり、無我から自我を確立していくことが歴史をつくった。しかしこれからは、自我から再び自己を回復する歴史をつくる必要がある。
 
自我から自己の覚醒の課題を背負っているのが西洋で、自我から自己を回復する課題を背負っているのが東洋の課題といえる。 
  (定森恭司)

私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。
定森恭司

2つの文化(常識)のぶつかりあい

①お互い様の文化
お互いがあたかも相手の悩みを自分のことのように感じながら悩みを分かち合い、お互いの心の痛みを察しあうことで支えあう文化。これを「お互い様の文化」とします。

②私中心の文化
「お互い様の文化」とは異なり、自分と他人の悩みは異なり、かつ個人的なものなので、お互いの関係はあくまで独立的であり、お互いの内面まではあまり踏み込まず、プライバシーを大切にして、相互の独立と自尊心を尊重し重視しようとする文化。これを「私中心の文化」とします。

現代は、①と②の文化による生き方が激しくぶつかりあっている時代といえます。特に、いまどきの日本人は、欧米化の文化の強い影響があって表層的には②の影響を強く受けてながらも、その一方では、①の生き方の影響を心の深層領域で根強く形成しながら育っています。しかも①と②では、価値観や常識が異なり、簡単にはひとつにはなりません。その結果、多くの人たちは①と②の常識のねじれ現象に遭遇して苦労しています。特に、個人としての生き方と公的な生き方をめぐる対立・混乱が激化しています。

時代の流れは、だいだい②に向かってきています。しかし、②の文化だけでは、人と人の関係があまりに無縁的社会になってきています。しかしだからといって、昔の①の時代に戻ってしまえば、集団や場ばかりが重視されて個が生かされなくなってしまいます。

大切なことは、個々の人々が、自分常識が他の人と異なることを自覚しながらも共存の生き方を模索し続けることを諦めないことと思われます。

世界の中で唯一かけがえのない存在として生きながらも、一方では、自己超越的な世界から誕生し、その世界としての一員としても生きている自己超越的存在としての存在に目覚めながら生きていくようなあり方が求められているといえます。
                                定森恭司

現代社会

現代社会とは、個々人が異なる意識や世界観を抱きながらも同時に存在することによって、ぎりぎりのところでせめぎあいながらも相互作用的に存在しようとしている世界といえます。 (定森恭司)

対話の中で新しい神話を創発する

人は知らずのうちに神話的世界に生きています。宗教を否定し、合理的で客観的である科学的価値体を信じる人でも、神話が科学的価値に置き換わっただけの神話的世界に生きているといえます。

人は神話的世界に生きているため、それまで信じてきた価値体系や世界観を根底から揺さぶるような異文化に接触すると深刻な心的危機状態に陥ります。それでも危機をもたす異文化でも、それなりに消化・同化することができたならば、再び安定を取り戻すことができます。しかしながら、“こころ”の深いレベルを揺るがすほどの異文化の場合は、これまでの神話を意味づけていた言語体系や真理の枠組みと異質なものとなり、とても受け入れ難いものとなります。この時、これまでの神話的世界からの,抵抗は、言語的なものというよりは、よりで感情的、より衝動的なものとして表現されます。ひとつひとつの言語の識別や言語の価値を意味づける深層レベルでの非言語的表象世界がまったく相容れないためです。このことは、神をめぐって異なるイメージを抱き合うために苛烈な宗教戦争を繰り返してきた過去の歴史をみれば明かです。

A神話とB神話が衝突した時、A神話がB神話をA神話化しようとしたり、B神話がA神話をB神話化しようとすると、お互い生存をかけての激烈な対立となるのです。

しかし、激しい異文化接触の場合でも、A神話はB神話の影響をうけて、これまでのA神話の価値の体系的統合性を解体させながらも、より新しい統合的な価値体系であるC’神話を創造する場合があります。また、B神話も同じように、これまでのB神話の価値体系の統合性を解体させながらも、新しいC”神話を創造することがあります。A神話とB神話の異文化接触が、お互いより近似的な新しいC神話に向かう可能性をもったC’神話とC”神話を創発するわけです。

この時、C’神話にもC”神話には、共に微妙な差異を示しつつもA神話・B神話が弁証法的に再統合されています。

高度技術革新・高度情報化・グローバリゼーションの時代にあっては、世界中の多様な異文化接触に晒され続け、多くの人々の心的世界を揺さぶり続けます。 それだけにこうした多様な異文化接触においては、ある文化が他の文化を支配したり、統合することなく、お互いが異文化接触に伴う不確実性に耐えながらも開かれた対話のうちに、お互いが新しい神話を創り出し続けあっていくような関係づくりが望まれます。   (定森恭司)

生成生滅の原理について

自己は、遺伝子に代表されるように生命体としての基本点な性質を持つとともに、宇宙開闢以来のさまざまな情報を継承してきています。しかも自己の内には、今・現在、自己が顕在化している性質の以上に、自己の内には、幾多の潜在的な未知の可能性を包含しています。

未知の可能性の中には、必要や状況に応じて、今・現在の私(我、現実主体)の生き方や性質を破壊してでも、潜在的可能性を顕在化させていこうとする自己超越的性質を内包しています。自己とは、今の私(我、現実主体)の維持への関心以上に、自己の中に内包する潜在的可能性を、いかにして外界の世界との出会いの直接体験を通じて自己実現していくかの方に強い関心をもっているのです。したがって、自己が、私(我、現実主体)の生き方に変容を迫ることは、ごく自然な流れであっても、私(我、現実主体)が自己に変容を迫ることは、とても不自然な行為となり、さまざまな症状や苦悩の要因となります。

ところで、遺伝子を含むさまざまな宇宙開闢以来の情報とは、ホロニカル心理学では、H主体(理)に相当します。H主体(理)とは、自己にも世界にも含まれていますが、可視的に見えるようなものではありません。パターン、法則、真理、数学、公理、規範、摂理など、「理」という形でしかその働きが把握できない類いのものです。しかも、ホロニカル心理学では、IT(それ)と呼ぶもの以外の「理」は、すべて絶対的な理とはなり得ず、すべてのH主体は、IT(それ)との一致に向かって変容していくと考えています。

こうした限界があるとはいえ、自己は、世界との出会いの中で、できるだけ世界と一致に向かうH主体を発見・創造しながら自己自身を自己組織化しようとします。

人の場合、自然の摂理のようなH主体(理)ばかりでなく、歴史や文化が含む社会的H主体(理)を含む世界が、自己の自己組織化に関与してきます。そのため自己にとっては、世界とは、自己に無理矢理一致を迫ってくるものとして実感されます。しかし、自己は、自己に制限を迫ってくる世界に対して、自己と世界が一致する方向に、自己自身を変容させようとするばかりでなく、自己にとって世界がより生き易くなるように世界自身を変えていこうと世界にも働きかけます。
通常、人の場合、自然の摂理とともに文化・規範や思想・宗教や倫理的規範などのH主体(理)が、ある一定のパラダイムとなって自己自己組織化を制限してきます。その結果、ある一定のパラダイムに一致する自己自己組織化に対してはH主体(理)は促進的に作用しても、ある基礎のパラダイムと不一致となる自己自己組織化や世界の働きかけに対してはH主体(理)は制限的に作用します。

しかしH主体(理)そのものも歴史的社会的流れの中で変化していきます。そのため数々あるH主体のうち、どれが自己と世界の一致をよりもたらすかは、自己と世界の出会いの場によって異なってくるため、確率論的にある程度予測することはできても、それを完全に予測することは不可能といえます。

こうしてホロニカル心理学やホロニカル・セラピーでは、自己と世界との一致を高めていくようなパラダイムをもたらすH主体(理)の発見・創造がとても重要と考えてします。    (定森恭司)

意識の変化とは

人が罪悪感を感じる時は、これまでの人生の中で取り込んできた道徳観と、今、感じはじめているが、まだ自分なりの価値基準としては十二分には確立してない、未形成の感覚との間で内的な葛藤があるものです。

葛藤とは、これまで取り込んできた古い文化に対して、自分がこれから新しい生き方を模索する上での創造的なぶつかりあいともいえます。この時、両者の間に大きなズレがなければ罪悪感は軽くなり、変容も斬新的な様相となります。しかし、両者の間に大きな溝があると、罪悪感も強くなり矛盾は激しい相剋となって出現し、変容も激しい様相となります。

価値の多様化が急激な時代の中にあっては、人々は生き方の指針をめぐって混乱し、過去に内在化した価値との間で、さまざまな罪悪感に苦悩することになります。古い価値に従おうとすればするほど、どうしても納得しきれない自分自身を処理しきれなくなり苦悩が拡大します。こうした時には、罪悪感をもたらしている古い価値観を見直すために、いったん自分自身から切り離し、心理的な距離をとって、批判的・客観的に俯瞰し、もう一度自分に消化すべきものと排出すべきものを区別してみることをお勧めします。

この時、単純に古い価値を全面否定して、内的な沸き上がる衝動や感覚のままに動けば動いてしまうとただ野獣的となってしまって、周囲の人達との軋轢を高めるだけの結果に終わることが多いので注意が必要です。こうした作業を通じて、“こころ”のより深部に時代の変化に影響を受けないようなより普遍的な価値を再発見し、より浅い層の様々な価値に関しては相対的に捉えなおしていくことを通じてを自分なりの価値を発見・創造することが大切になります。

価値の多様化の中に創造的に生きるということは、多様な価値の存在を受け入れるとともに、自己責任下で自分なりの価値を主体的に創造することいえます。  (定森恭司)

「私」の内・外をめぐって

東洋的な感覚に近い人にとっては、私(自己)と世界、私(自己)と自然、我と汝との関係は、より相互浸透的なものといえます。もし「私」をめぐる「内」と「外」の間に境界膜のようなものがあるとするならば膜が薄いと比喩できます。

逆に、西欧的な感覚に近い人にとっては、私(自己)と世界、私(自己)と自然、世界我と汝の関係は、相互独立的であり、「私」をめぐる「内」と「外」の境界膜は厚いと比喩できます。

こうした差異がどこから生じたのかは不明ですが、文化人類学などが明らかにしつつあるように、気候・風土なども相当影響してきたのではないかとも思われます。過酷な自然と向き合った西欧人と、四季の移り変わりとともに生きた東洋人では、「私」と「自然」と認識のあり方に相当の影響があったのではないでしょうか。

「内」と「外」との関係の相互浸透性を深く追求すると、そこには無境界の感覚が生じることになります。無境界レベルでは、内・外の区分がなく、世界と自己は融合的で一体的で同時存在的に感じられることになります。逆に、「内」と「外」との差異をより追求すれば、それは「世界」から独自の存在としての、「自己」の存在に目覚めることになりますが、世界とのつながりを失った孤独に耐える力が必要となります。

結局、「内」と「外」の関係性をいかに認識するかで、世界観や自己観はまったく異なったものったものになるといえます。        (定森恭司)

父性原理と母性原理をめぐって

父性的原理は社会的規範をロゴスとして伝える働きをもち、切断の原理、自他を明確にわける機能をもつ。これに対して母性原理は、バラバラのものを包み込むエロスの原理である。といった語り方をする時、そこにはすでにステレオタイプな父親や母親の区分が無意識のうちに投影されている可能性があります。ひょっとすると、こうした2分的思考そのものが、家父長的な男性社会の無意識的規範の投影の可能性すらあります。もっと厳密に記述するならば、こまでの社会は、切断の原理や自他を明確にわけるロゴス原理を父親に付与し、包み込むエロス原理を母親に投影してきた社会であったと記述した方が適切かも知れません。

親が子どもに対して、ロゴスとエロスという相矛盾する性質を与えてきたのは事実でしょう。しかし、ロゴスを父親に、エロスを母親の役割とステレオタイプに付与してきた流れが変化し、父親であろうが母親であろうが、そのいずれもがロゴス・エロスを含んで子どもに対応してもいいのでないかという文化が芽生えつつあります。

ロゴス・エロスは陰陽的関係で不可分一体といえます。ロゴスによる切断原理とエロスによる一体化の原理が相矛盾すしながら一体となって、子どもの養育にとって大きな影響を与えることは、今後も続く普遍的なテーマといえるでしょう。

しかしながら、子どもを外からの侵襲から守るのは父親で、家を内で守るのは母親という図式は、すでに古い文化となり。今後は必要に応じて見直していく必要があるといえます。

子どもにとっては、内にあって守る力と外からのを守る力が必要なのであって、両親のいずれがどのようにそれを果たすかは、それぞれの両親によって決定されればよい時代に入ったといえます。
(定森恭司)