自殺願望について

「死にたい」という語りは、あたかも内なる私(内的現実主体)からわき上がる気持ちのように聞こえますが、実はそうではありません。そこには、自分で自分自身を否定するような不適切な価値観の影響が必ずあるものです。

ホロニカル・アプローチの視点からは、死にたいと語る人には、内なる私(内的現実主体)を観察している私(外我)の物事の見方の枠組みの中に、内なる私(内我=内的現実主体)を否定する価値観があることが明らかになります。私自身を観察する私の物の見方の中に、不適切な価値観(H主体:理)が内在化しているため、内なる私(内的現実主体)が否定され死にたくなってしまうのです。

本来、内なる私(内我=内的現実主体)は、刻々生成消滅を繰り返す自己と世界の出会いの直接体験を生命として自然に実感する存在です。ところがこうした自然な直接体験を体感する筈の内なる私(内我=内的現実主体)も、観察主体となる私(外我)から徹底的に否定されてしまうと、世界との生々しい接点を失ってしまいます。世界との生き生きとした接点を失った自己は、あたかも虚空に投げ出されたかのようなものです。こうなってしまうと、何んらかの助けがないと、どんどんブラックホールのような心の暗闇に引きずり込まれていってしまうのです。

大切なことは、内なる私の存在を否定するような間違った理(不適切なH主体:理)から徹底的に内なる私(内的現実主体)を守ることです。また自己と世界の接点の生命の躍動を内なる私(内我=内的現実主体)が直覚できるように支援することといえます。

理によって人は生きているのではありません。人には生きるための理の発見と創造が大切なのです。
定森恭司

自己の多様性と可塑性

自己は、多様性をもった存在です。多彩な顔と声をもっているのです。

しかし多彩な顔と声のある顔や声のいずれかに焦点化すると、焦点化した顔と声だけがとても意識されてクローズアップされてきます。その結果、他の顔や声は、自己の背景に沈潜していきます。その結果、ある顔と声に焦点化する前の自己と、ある顔と声に焦点化した後の自己の間には、微妙な差異が起きてきます。

例えば、人が絶叫するとき、怒りという感情に焦点化すれば怒りの感情ばかりが湧出してきます。しかし、怒りの感情を一旦“こころ”の脇に置くような感じで自己と向きあえば、悲しみの感情が溢れてくる場合もあります。もし、怒りの感情を抱く自己の底の奥に悲しみの感情もあることに気づくと、怒り一辺倒のときの気持ちとは微妙変化してきまます。さらに、もし悲しみの感情を“こころ”の脇に置いて自己と向きあえば、空しい感情が込み上げてくる場合があります。するとさらに複雑な気持ちに変化していきます。

このように自己とは、私たちが想像している以上に、私たちが何に意識をやるかでもって変化するような可塑性をもった存在なのです。 (定森恭司)

自己と現実主体

自己は、私自身、己(おのれ)、自分、大きな私などいろいろな呼び方をされます。

ホロニカル心理学でいう現実主体も、私、我、自我、小さな言い表され方をされているものに相当します。

自己と現実主体の次のような差異は念頭においておくと良さそうです。

自己は現実主体と比較して、より潜在的で、より広く、より大きく、しかも多様性をもっているけれど、現実主体は、より顕在的で、より狭く、より小さく、しかも一点集中的であろうとすることです。

こうした差異があるため、自己との対話なき現実主体の自己決定は自意識過剰の独占的決定になりがちですが、自己の直接体験との自己照合に裏づけられた自己決定は、より場の現実に即したものになる可能性が広がるといえます。

自己と現実主体の対話が大切なのです。

この時、世界とは関係なく存在する自己の底を現実主体がいくら追い求めても、無限の暗闇世界に落ち込んでいくだけです。しかし自己の底に世界と触れあっている直接体験を直覚することができるならば、そこに人生の道を発見・創造することが可能になります。
(定森恭司)

意味を問う

私(現実主体)とは何者かと問うのでなく、世界とは、自己とはと問い、その意味を発見・創造することが大切です。 (定森恭司)

有機的統一性と多様性を有する自己

自己は身体的には有機的統一的特性を持つといえますが、しかし、社会的文脈の中で自己は心理的には実に多様で多彩な特性をあらわにします。(定森恭司)

生成生滅の原理について

自己は、遺伝子に代表されるように生命体としての基本点な性質を持つとともに、宇宙開闢以来のさまざまな情報を継承してきています。しかも自己の内には、今・現在、自己が顕在化している性質の以上に、自己の内には、幾多の潜在的な未知の可能性を包含しています。

未知の可能性の中には、必要や状況に応じて、今・現在の私(我、現実主体)の生き方や性質を破壊してでも、潜在的可能性を顕在化させていこうとする自己超越的性質を内包しています。自己とは、今の私(我、現実主体)の維持への関心以上に、自己の中に内包する潜在的可能性を、いかにして外界の世界との出会いの直接体験を通じて自己実現していくかの方に強い関心をもっているのです。したがって、自己が、私(我、現実主体)の生き方に変容を迫ることは、ごく自然な流れであっても、私(我、現実主体)が自己に変容を迫ることは、とても不自然な行為となり、さまざまな症状や苦悩の要因となります。

ところで、遺伝子を含むさまざまな宇宙開闢以来の情報とは、ホロニカル心理学では、H主体(理)に相当します。H主体(理)とは、自己にも世界にも含まれていますが、可視的に見えるようなものではありません。パターン、法則、真理、数学、公理、規範、摂理など、「理」という形でしかその働きが把握できない類いのものです。しかも、ホロニカル心理学では、IT(それ)と呼ぶもの以外の「理」は、すべて絶対的な理とはなり得ず、すべてのH主体は、IT(それ)との一致に向かって変容していくと考えています。

こうした限界があるとはいえ、自己は、世界との出会いの中で、できるだけ世界と一致に向かうH主体を発見・創造しながら自己自身を自己組織化しようとします。

人の場合、自然の摂理のようなH主体(理)ばかりでなく、歴史や文化が含む社会的H主体(理)を含む世界が、自己の自己組織化に関与してきます。そのため自己にとっては、世界とは、自己に無理矢理一致を迫ってくるものとして実感されます。しかし、自己は、自己に制限を迫ってくる世界に対して、自己と世界が一致する方向に、自己自身を変容させようとするばかりでなく、自己にとって世界がより生き易くなるように世界自身を変えていこうと世界にも働きかけます。
通常、人の場合、自然の摂理とともに文化・規範や思想・宗教や倫理的規範などのH主体(理)が、ある一定のパラダイムとなって自己自己組織化を制限してきます。その結果、ある一定のパラダイムに一致する自己自己組織化に対してはH主体(理)は促進的に作用しても、ある基礎のパラダイムと不一致となる自己自己組織化や世界の働きかけに対してはH主体(理)は制限的に作用します。

しかしH主体(理)そのものも歴史的社会的流れの中で変化していきます。そのため数々あるH主体のうち、どれが自己と世界の一致をよりもたらすかは、自己と世界の出会いの場によって異なってくるため、確率論的にある程度予測することはできても、それを完全に予測することは不可能といえます。

こうしてホロニカル心理学やホロニカル・セラピーでは、自己と世界との一致を高めていくようなパラダイムをもたらすH主体(理)の発見・創造がとても重要と考えてします。    (定森恭司)

私という存在の二重性について

ホロニカル心理学では、「私」というものは、有限で代替不可能な唯一の存在であるとともに、無限で自己超越的な存在でもあると考えています。「私とは、ほかならぬ私自身であるとともに、私でもないものでもある」となります。

一般常識的には、「私」という時は、「私が、○○した」「私は、○○したい」というように、「主語となる私」のことです。「我」とか、心理学では「自我」と呼ばれたりして、ホロニカル心理学的では「現実主体」のことといえます。「主語となる私(現実主体)」が、普段の意識活動の中心の担い手といえます。こうした私は、定森恭司というように固有名詞をもつ、世界で、唯一の存在であり、かけがえのない存在といえます。

しかしながら、もう一歩、注意深く検討すると、「主語となる私(現実主体)」を「小さな私」と比喩すると、もっと「大きな私」が「小さな私」の土台としてあることに気づきます。心理学で「自己」と呼ぶものです。

自己という存在があって、その土台の上に、「私」という意識が働いているわけです。

主語となる私(小さな私:現実主体)を馬の騎手として喩えると、自己は馬にあたります。自己は、意識活動の担い手にもなりますが、普段は、無意識や身体的自己を含む存在として動物のようにごく自然に振る舞っている生命的存在でもあるからです。

生き易い生き方とは、騎手と馬が人馬一体となって振る舞うことができます。もし、騎手(小さな私:現実主体)と馬(大きな私:自己)の不一致が続いてばかりいては、とても生き辛い人生になるといえます。
このように人の場合、大きな私(自己)の土台の上で、自己自身を意識することもできる小さな私(現実主体)が活動しているわけです。

しかし、自己自己だけでは存在しません。あまりにあたり前のことですが、自己は世界があって、はじめて生きることのできる存在です。世界がなければ、自己もすべてもありません。自己は、世界が世界自身が万物を産み出す創造的産物として産まれてくる存在といえます。親が子どもを産むというより、世界が万物をはじめとする生命を創造し、生命のつながりの中で親が子を育み、新しい自己が誕生してくるのです。

そして、世界から誕生した自己は、自らを産みだした世界との出会いの中で、自己の死に至るまで、小さな私(現実主体)がいろいろな人生ドラマを展開していくわけです。

小さな主語となる私が産み出すドラマは、他の人々の人生のドラマに大いに影響を与えます。そして数々のドラマの一滴一滴が、大きな川となり、やがて大きな歴史の流れを創りだしているのです。

一見、自己は、世界と分断されている孤独な存在のように思えます。しかし、決して、そうではありません。孤独と感じているのは、主語となっている小さな私の思い違いです。

もともと自己という存在は、世界とのつながりがなくては存在できないからです。先見的に世界とつながっているのです。
特に人の場合、ただ自然の世界に生きているだけではなく、歴史・文化・社会という身体的自己を超えた社会的世界にも生きて存在しているのです。

世界から誕生した自己は、自ずと自らを産んだ世界とできるだけ一致できるような新たな自己を発見・創造しながら生きようとします。小さな私(現実主体)と大きな私(自己)の一致による生き易い人生の発見・創造のためには、自己と世界の一致が必要となるのです。人の場合の自己は、自己自身を変容させようとするばかりでなく、自己と世界(歴史・社会を含む)ができるだけ一致するような新たな世界を発見・創造しようとして世界(歴史・社会を含む)にも働きかけます。

また、世界も、自己や万物に対して、世界と一致するようような、新たな変容を迫ってきます。また自己や万物に変容を迫る世界も、変容を迫った自己を含む万物によって創られいますから、結果的に世界自身も変容を迫られ、新たな世界を創造していくことになります。

最終的には、自己の死によって自己(小さな私を含む)は終焉を迎えます。しかし、自己の死とは、そこから産まれ、そして生きている間ずっと働きかけた世界そのものになることといえます。
このように自己とは、とって替わることの決してできないかけがえのない固有の存在であるとともに、自己超越的存在でもあるといえるのです。    (定森恭司)

個的存在と超個的存在としての自己

人間の自己は、個的存在としての性質ばかりではなく、言語をもったことによって個的存在を超越することができます。
自己は実際に経験したことばかりではなく、言語を介した情報や知識を通して、自己を超える存在について思考し、想像し、感じることができます。

自己は、個としてのこころの働きばかりではなく、個を超越するこころのは働きをももっているといえます。こうした個を超越する機能があるからこそ、自己は世界との関係において、根源的には一であることに目覚めることができるのです。
有限の唯一のかけがえのない個的存在である自己が、世界と根源的にはつながっており、一であることの自覚は、自己に救済をもたらします。自己のもつ自己超越的機能に気づかぬ自己は、個的存在の有限性や孤立性に苦悩しつづけることになります。
(定森恭司)