他律的内的現実主体について

本来、内的現実主体という概念は、自己と世界の触れあいのさまざまな直接体験の各断片を、すべて同一の身体的自己における出来事として直覚し、それらを全一体験として統合していく主体(内我)のことを定義したものです。それに対して、他律的内的現実主体とは、本来向かうべき直接体験に向かって内我の意識の志向が向かわず、むしろ反対方向である外界や外我に向かい、かつ外界や外我の働きかけに対して服従するか受動的姿勢をとるようになる主体(内我)を定義し、内的現実主体と区別した概念です。

心理相談の現場で、最近増加してきているタイプを理解していくなかで創発された概念です。

他律的内的現実主体は、乳幼児期などの人生早期に形成されていけばいくほど、その後の人生における内我も他律性が強固なものとなっていきます。

脳の可塑性に富む乳幼児期における生物学的な特性や身体的自己の障害の有無、家庭養育や社会環境の変化などの各要因が、エピジェネティクスの研究が明らかにするように環境と遺伝が複雑に絡み合っての生理・生物学的変化が心理学的概念である内我の形成にも深く影響してきたことによって登場してきたと考えられます。

内我が、内的現実主体なのか、それとも他律的内的現実主体なのかの違いは、人生の歩み方に大きな違いをもたらします。

他律的内的現実主体は、衝動、欲動、欲求、食欲や身体運動感覚に対する直覚が極めて脆弱で、直接体験そのものを直覚するよりも、むしろ観察対象として、外我と一体となって知的・理性的に分析しようとする態度をとります。また他律的内的現実主体は、むしろ内的な衝動・欲動・欲求、食欲や身体運動感覚の出現を恐れその動きをできるだけ禁止したり、動きそのものをないものにしようとします。こうして、感じることよりも、考えてばかりの生き方になります。その結果は、「自己と世界も生命力のない無機質な物的なもの」となります。

また、人とのコミュニケーションにおけるやりとりも、場のをお互いの身体的自己の直接体験を媒介にして共有することができず、情緒的な交流や共鳴的関係を形成しにくくなり、親密な対人関係や場になじめないという問題をつくりだしていきます。

しかし、心理相談の場で遭遇する限りにおいては、こうした人々の自己の底には、絶叫したくなるような感覚が蓄積されていることが多いのも事実です。したがって、転機は、絶叫を抱えている自己の直接体験を実感・自覚するところから訪れます。しかし、莫大なエネルギーをため込んでいる絶叫の実感は、一歩間違うと内我や外我を破壊しかねません。絶叫の実感と自覚の作業は、核汚染された原子炉の廃炉作業にも似た慎重さが必要になります。
(定森恭司)

お知らせ

現在、待機者も出ており、新規の方の相談を受け付けるための空きがありません。大変ご迷惑をおかけしますが、また時期をみてお問い合わせください。

なお、カウンセリングにはタイミングが大切ですので、もし、お急ぎの場合は、下記サイトをご参照にされるなどして、他の相談機関に一度お問い合わせください。

参考サイト
①当室ホームページリンク集の心理相談室等
    http://kokoro.racoo.co.jp/link
②社団法人日本臨床心理士会のホームぺージ: 臨床心理士に出会うには
    http://www.jsccp.jp/near/

注1)心理相談室“こころ”のカウンセリングは、心理的悩みや問題に対して、来談者ご自身が、“こころ”の内的世界や外的世界を見つめ直すことによって、より生きやすい人生を創造的に歩んでいけるように、臨床心理学的方法によって支援するところです。

したがって、医療機関のように、「治療」や「治す」ことを目的としておりません。当室のカウンセラー(臨床心理士)は、あくまで来談されたご自身の「こころとの対話」による自己理解や生き方の整理のためのサポーター役とご理解ください。また、精神科や心療内科などの医療機関に通院の場合は、カウンセリングの適否について、主治医の了解を必要とします。

注2)初回面接は90分ほどかかり、料金は10,800円となります。初回面接後、もし継続となった場合は、初回面を実施したカウンセラーが、そのまま担当し面接日時も初回面接を実施した曜日と時間帯をそのまま継続するのが原則です。無論、1回で終了したり、しばらく様子を見る場合もあります。

注3)ご不便をおかけしますが、日祝日・出張中・面接中は、電話に出ることができず、留守録対応となっています。留守録対応の時は、その都度、連絡可能時間帯等を案内していますので、ご参照ください。

いろいろな私


「私(我)」って一体なんだろうとは、誰もが一度は考えるものです。

「我思う、故に我あり」の「我」も、「私」についての有名な哲学者デカルトの言葉です。

デカルトという人は、世の中のあるゆるものについて、それが本当にあるかどうかを徹底的に疑ってみた時、間違いなくあるのは、「疑っている我」だと発見したというのです。しかし、こうした「私」は、普段、「私は、○○です」と語ってる時の「私」のイメージとは異なり、「私は、○○です」と感じたり、考えたりしている私自身に気づく「私」といえます。「私」を観察の対象として「観察している私」のことを指しています。

そこでよくよく、こうした2つの私を想定した時、私たちは普段、「自分って駄目だな」「自分って本当馬鹿だな」「私ってつくづく○○が好きだな」などと、「観察する私」と「観察される私」が無意識のうちに対話しながら生きているといえます。

ところが、最近、いい意味での2つの私の生き生きとした対話と交流が失われ、「自分は駄目だ」「自分は馬鹿だ」などと観察する私が、ただ一方的に観察される私のことを批判・批評ばかりしている人たちが増えてきているような気がします。

                                                  定森恭司

 

旅の思い出

人はなぜ旅行するのか?

「思い出づくり」と言う方も多いでしょうが、それを言うのも若いうちではないかと思います。私ももっと若い頃、とくに子どもを連れてあちこちと行ってたときは、そんな気持ちも大きかったです。しかし、子ども達は、何処に行ったとか、どんなところに泊まったとか、ほとんど覚えてないと言うし、多少覚えていたところがあっても、こちらはそこは覚えてなくて、お互い「そうだったの!」行ったときは楽しそうにしてたような気がしてたが・・・                       

ここ数年は、夫婦であちらこちら行くようになってきましたが、「去年のGW何処行ったっけ?」「確か11月どこかいったよね~」みたいな会話が多く、思い出そうとしても思い出せず、もはや「思い出」は旅行先においてきてしまうようになったようです。

なぜ旅行するか。今にして思うに、行ったときに楽しい時を過ごすかどうかだけだと思えてきます。思い出に浸るとか、思い出話に花をさかすということはできません。思い出は旅先に置いてきてしまっているいるので。

こころ穏やかに生きるためには、「その時を生きる」「今を生きる」とかよくいわれますが、私のように年をとってきて覚えてることが減ってくると、自然に「今を生きる」しかなくなってきて、これはこれで、いい生き方かもしれませんね。

写真は白根山の湯釜。50年近く前に友人と湯釜を一周した記憶がありますが、まぼろしかもしれません。 ( 定森露子)

歩くとは?

同じ出来事でもどのように表現するかによって、その人の主体性についてのイメージが知らずのうちにあらわれきまます。

例えば、歩くことについて考えてみます。 「私は歩いている」と表現するか、「歩いている私」と表現するか、「今思えば、ただ歩いていました」と表現するか、「私は歩くしかない」と表現するかで、私という主体の捉え方の微妙な違いが表現されてくるのです。

※主体についてのホロニカル心理学的考察については、<「こころの不思議」の「私とは><「ホロニカル心理学雑感」の「現実主体」>の「主体(私=現実主体)」を参照ください。

主体(私=現実主体)とは

自己と世界の出会いの直接体験をどのように表現するかというところに、その人の自己と世界の関わり方に関する主体的特徴が現れてきます。

例えば、歩くことについて考えてみます。

「私は歩いている」と表現するか、「歩いている私」と表現するか、「今思えば、ただ歩いていました」と表現するか、「私は歩くしかない」と表現するか、歩くことによって刻々変化する世界と私との関係の意味づけがまったく異なっているのです。

こうした考察を徹底していくと、実は、主体とは、絶えず状況と目的に応じて、その都度その都度ことなる主体が創り出されてくるものであることがわかります。

「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人ある」と語り、主体的存在の恒常性や固定性を否定し、非連続的連続性を明らかにしてきた西田哲学も同じような視点にあるといえます。主体(私)とは、いつも「在る」ものではなく、瞬間・瞬間、忽然と立ち合われては、忽ちまちのうちに消えていくようなものと捉えられいるのです。こうした主体の捉え方の差異こそが、主体(私)の表現の仕方の違いにそのままつながっているわけです。

私という主体(ホロニカル心理学では現実主体と呼びます)には、「どうやって生きるかは責任をもって自分で決めなさい」というトーンが含まれています。しかし、実際には、誰ひとり、世界や生活環境の状況にまったく関係なく、自分の意志だけで物事を決定しているということなどありえません。しかし、だからといって、運命は私の意志にはまったく関係なく世界によって決定されてしまっているわけでもありません。

主体性とは、自己と世界の出会の多様な意味を含んだ体験から、自己と世界のある面を瞬間・瞬間に語りだそうとするところに創りだされてくるものといえるのではないでしょうか?

宮澤賢治は、「春と修羅の序」の中で、「私」というものを電灯に比喩しました。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈のひとつの青い照明です

実は、私という主体は、一般的に思われているような恒常的な存在でも固定的な存在でもなく、瞬間・瞬間に創出、瞬間瞬間に消えてさっていくような明滅を繰り返しているようなものと思われます。

状況・状況に応じて非連続的に主体が立ち現れきてきますが、その都度立ち現れる主体には、これまでの非連続体験が経験が包含されながら立ち現れてきてるわけです。こうした非連続的直接体験の連続体験の累積の中で、その人なりの自己と世界の出会いに関する特徴的パターンのが形成されているのです。

こうした自己と世界の関わりの特徴的パターンは、その人の語り方の差異となって表現されてくるのです。先の「歩く」ことに関する表現の差異がその具体例です。語り方とは、主体の述語の関係や表現の仕方の違いといえるのです。

ホロニカル・アプローチでは、こうした表現の違いを、主語・述語関係に、自己と世界の関係をめぐっての観察主体と観察対象の関係が相同的パターンとして現れくると考えています。

主語と述語の表現の仕方に、ホロニカル心理学でいう外我と内我に関する発達段階的特徴に関するパターンが発見されます。このパターンをクライエントとカウンセラーが共に共有し、もし悪循環パターンが発見されれば、より生き易い生き方のパターンを協働しながら共同研究的に模索するというアプローチをとっているのです。
定森恭司

真理の発見・創造

人生の意味のある生きた真理とは、デカルト依頼成立した自己を抜きした客観的な普遍的な近代科学的法則として発見されるようなものではく、自己の体験として発見・創造されるようなものでなければなりません。そうでないと、ただの知的で形式的で抽象的な一つの知識にしか役にたたず、もしそうした無機質的な知識を真理と錯覚すると人生はとても空虚なものとなってしまいます。

生きた意味のある真理は自己と世界の出会いの直接体験の中から発見・創造されるのです。 定森恭司

私的領域と公的領域

人生の生き方には、いろいろな色合いがあります。

一つは、私的領域を重視した生き方です.ホロニカル心理学の概念からすると、内的現実主体(内我)重視の生き方といえます。自己中心的とか、わがままとかいわれがりになりますが、自分自身の内的な欲求充足を大切な生き方といえます。自己愛の強い生き方といえます。個人主義的な生き方ともいえます。

二つ目は、公的領域を重視した生き方です。ホロニカル心理学的の概念からすると、他律的外的現実主体(他律的な外我)優位な生き方といえます。他者献身的とか、自己犠牲的とかいわれがちになりますが、社会とか他者をとても大切にした生き方といえます。他者愛の強い生き方といえます。社会秩序を重視した生き方といえます。この時、どんな社会的価値を重視して生きるかの基準となっているのがホロニカル心理学でいうホロニカル主体(理)といえます。ホロニカル主体は、所属する社会の歴史や文化の影響を色濃くもっています。

三つ目は、私的領域と公的領域の一致度が極めて高い人生の生き方といえます。タオ的生き方、悟りの開けた生き方といえます。凡人でも瞬間そうした時があっても、なかなかその持続は困難です。

また、他にも、乳幼児のようにまだ2つの領域の境界が渾沌としていたり融合している段階の生き方もあります。

人生は、私的領域と公的領域の狭間に苦悩しながら生きているといえます。
定森恭司

孤独な人生を分かち合う

人は誰もが、自分の人生の孤独と向き合って生きるしかありません。しかし、こうした人生の悲哀を、分かち合うことのできる仲間をもっていることも大切です。

自分の人生を誰かと取り替えることができないという個別性が、極めて個人的色彩の強い人生の物語を創り出します。しかし、他方では、誰もが、生まれた世界に向かって死にゆくということにおいて全く平等で公平な人生の物語を逃れることはできません。

しかしこうした人生の孤独と共通性を何気なく感じることのできる者同士が、人生の仲間となることができます。

人生を共に生きる仲間を得ると、人は自ずと、自分と他人の狭間や内的世界と外的世界の狭間に苦悩しながらも、ほどよい距離感をもった人生を生き抜くことができるようになります。 定森恭司

自殺願望について

「死にたい」という語りは、あたかも内なる私(内的現実主体)からわき上がる気持ちのように聞こえますが、実はそうではありません。そこには、自分で自分自身を否定するような不適切な価値観の影響が必ずあるものです。

ホロニカル・アプローチの視点からは、死にたいと語る人には、内なる私(内的現実主体)を観察している私(外我)の物事の見方の枠組みの中に、内なる私(内我=内的現実主体)を否定する価値観があることが明らかになります。私自身を観察する私の物の見方の中に、不適切な価値観(H主体:理)が内在化しているため、内なる私(内的現実主体)が否定され死にたくなってしまうのです。

本来、内なる私(内我=内的現実主体)は、刻々生成消滅を繰り返す自己と世界の出会いの直接体験を生命として自然に実感する存在です。ところがこうした自然な直接体験を体感する筈の内なる私(内我=内的現実主体)も、観察主体となる私(外我)から徹底的に否定されてしまうと、世界との生々しい接点を失ってしまいます。世界との生き生きとした接点を失った自己は、あたかも虚空に投げ出されたかのようなものです。こうなってしまうと、何んらかの助けがないと、どんどんブラックホールのような心の暗闇に引きずり込まれていってしまうのです。

大切なことは、内なる私の存在を否定するような間違った理(不適切なH主体:理)から徹底的に内なる私(内的現実主体)を守ることです。また自己と世界の接点の生命の躍動を内なる私(内我=内的現実主体)が直覚できるように支援することといえます。

理によって人は生きているのではありません。人には生きるための理の発見と創造が大切なのです。
定森恭司