誠実な会話のための条件
誠実な会話ができる時を振り返ってみると、お互いの感じ方や考え方が、いつも一致しているとは限らないことに気づきます。むしろ、誠実な会話が成立している時ほど、自分の感じ方や考え方とは異なる人がいるもんだなあと、つくづく感心しているものです。 自分とは異なる世界観や常識をもつ人がいることに、日頃から沢山気づくことができている人ほど、世界の多様性と面白さを感受することができているといえます。
しかし、こうした気づきのためには、次のような条件が必要になります。
①問題に対して、お互い自発的な問題解決模索の態度をとること。②自分に対しても相手に対しても、できるだけ率直な態度をとろうとすること。③安心して自己表現できる場づくりにお互い心がけること。
こうした条件が満たされて、はじめて人は安心して異なる感じ方や考えを相手に語ることができます。
協働的な雰囲気がある場では、誰もが問題を解決の主体になり得ることに自信を深めます。こうした協働的な場があるからこそ、自らの感じ方や考え方を新鮮にし、それを基準にして自らが判断し、自らが問題を解決していくことができます。そして、自分なりの解決ができながら、自分とは異なる多様な見方や問題解決の仕方があることを実感し、違いに対する寛容さを身につけることもできるようになると思われます。 (定森恭司)
春

やっと、寒くなくなってきました。「暦」とはたいしたもので、「立春」ごろになったらちゃんと暖かくなりました。今年は暑いの寒いのと言っても、大枠はかわらないんだなあと感じさせられます。と、言ったのもつかの間、また寒さが戻って来ました。しかし、こうして「暖かい・寒い」を繰り返しながら、実は「寒い」の底が上がって行くのでしょう。
「春」のイメージは本当に人さまざまでしょうね(日本限定で考えています)。春になってうれしい人、うれしくない人、うれしい人をみてうれしい人、うれしい人を見てうれしくない人・・・・。春がつらい人もいます。「春!!喜びいっぱい!!」といった画一的な報道は少し控えめにして欲しい。
こんな事言って、せっかくの春に冷たい風を吹き込んでしまったようで、春を待っている人には少し申し訳ありません。しかし季節に思いを重ねる私たちであればこそ、季節の繊細な空気を感じ取りたいもの。 定森露子
写真:バナナの皮で作られたバオバブ・動物たちは、相談室に入ってすぐの靴箱の上におかれています。相談室を訪れた方がまず始めに目にする物だと思います。アフリカのどこかの国の養護学校の子の作品だったと記憶しています。開室以来、ずっと変わらずここにいて、相談に来てくださった方々のやさしいまなざしを受けています。
自然治癒の力に触れる
現代の心理学は、「こころ」を対象としながら、「こころ」を見失ったような感があります。心理学の研究対象が、認知、記憶、行動、感情、パーソナリティなどに細分化していることの影響があるかもしれません。対象化される「こころ」は、いずれも「こころ」のある側面、機能、作用をさしていても、その全体ではありません。また、「こころ」は、細分化された断片を組み合わせて全体として描こうとしても描ききれません。ある意味で、直観的にその全体を実感する以外にない代物でもあるのです。「こころ」の全体から何かを研究対象として切り取った瞬間、すでにそれは「こころ」の全体ではなくなってしまうのです。どうやら全体と部分を共に対象とすることは、残念ながら不可能のようです。学問的に研究すると、こころの全体から遠のき、全体を実感しようとすると直観的な世界でしか表現できなくなり、科学的な学問から逸脱してしまう矛盾を孕んでいるからです。
しかし、これまでの実に沢山の人との出会いを通していえることは、「こころ」には、自然治癒の力も備わっているということです。しかし、それは、ただほっておけばよいというようなものではありません。自己と世界が適切に出合いつづける方向に「こころ」を精妙に働かせる必要があります。世界内存在として、自己と世界の一致を求める生き方を模索し続けるところに、「こころ」は自然治癒の顔をのぞかせる印象です。
自己と世界の一致を求めて自己が触れて欲しがっているところを探り当て、自然な自己の流れに素直に従えるようになる時、自然治癒の力が働き出すように思われます。
今・この時、まさにこころが触れたがって貰いたがっているところに焦点をあわせると、自ずと新しい言葉や生き方がわきあがってきます。それは、まさに新しい人生が誕生する瞬間でもあります。 (定森恭司)
やっかいな“こころ”
“こころ”のことを、科学的、哲学的、理論的に考えようとする時、忘れがちになってしまう重要問題があります。
実は、“こころ”を観察対象とした途端、“こころ”は観察する側と観察対象となるさ側に別れてしまうということです。分離されているとき、観察しようとする私(主体)は、あたかもこの世の世界から離れた別世界にいるかのような存在になっています。しかし、実際には、それは錯覚です。“こころ”を観察しようとする私が、世界の外側にいることは、観察しようとする私そのものが世界の内に存在し生きている限り不可能なことです。
しかし、じゃあ、今度は、観察しようとしている私を含んで、“こころ”のことを考察しようとしても、じゃあ、今度俯瞰しようとする私をどのようにするかというやっかいな問題がどうしても残ってしまいます。結局、“こころ”の現象では、“こころ”を観察しようとした途端、“こころ”のことを把握しようとする私と“こころ”そのものとが分離してしまうというやっかいな問題があるのです。
このやっかいな問題は、“こころ”の問題を考える時、さらに次のような問題を引き起こします。観察しようとする私が、一体、“こころ”の問題に何を発見しようとするかで、“こころ”の問題の次元そのものまで変化してしまうということです。“こころ”の問題に、感情の問題を発見しようとすれば、“こころ”の問題と感情とのつながりがいろいろと発見できます。また、“こころ”の問題に、物事の理解の仕方のような認知と言われるような働きの問題をみつけようとすれば、“こころ”の問題と認知の歪みのつながりを発見できます。また、“こころ”の問題に、脳の機能不全を見ようとする人は、そこに生物・神経学的働きと“こころ”の問題のつながりを発見することができます。また、“こころ”の問題に、社会・文化の影響などを見つけようとすれば、これもまた発見できるのです。
このように、“こころ”の問題を考える時、観察しようとする人が、どのような姿勢で何を発見しようとするという構えそのものが、“こころ”の現象に影響してしまうのです。“こころ”の考察や“こころ”の問題は、ニュートン力学のように普遍法則化できず、観察主体(私)と観察対象(“こころ”)の関係を抜きに語ることはできないといえます。 (定森恭司)
暑かった~

モラ(写真):土台となる布の上に、図案を描いた布を重ね、下の布を切らないように切り、布端を折り込んでたてまつりで縫う。パナマのサンブラス諸島などに住むクナ族の女性が作る民族衣装を起源としている。
やっと、朝夕涼しくなってきました。ほっとしたら体もほっとして、ちょっと疲れた感があります。
「暑いと言ったって、涼しくなるのでもなく・・」と、いつも暑いなんてあまり言ってませんでしたが、今年の夏は「暑い」という元気すらなく、ただただ、「はあ~~」しか出てきませんでした。
買い物に行く気にもならず、家にある食材ですますという食事が続き、洗濯物を干しにいくのも嫌で、選択回数も減りました。
不本意ながら、夜通しエアコンをかけて寝ていました。この夏の電気使用量はかなり増加したと思う。地球温暖化にさらに拍車をかけてしまったのではないか・・そう思いつつ、エアコンつけていました。こころの中でいろんないい訳考えながら。
人間なんて(私なんて)、やっぱり結構いいかげんなもんだ・・・
涼しくなったら、環境のことしっかり考えよう。 (定森露子)

