自己と世界を疎外する喧噪語

e38391e382bde382b3e383b3e381a8e690bae5b8af1 現代社会をけたたましく飛び交う情報は、喧噪語といえる。喧噪語は、何かを体験する前に人に情報を与えることによって、人をあたかもわかったような気にさせてしまう。ある少年は語った。「僕はインターネットなどを通じて、あふれる情報に触れているうちに、何もかも知ってわかったような気になっていた。それで、なんか人生が終わってしまったような気になっていた。でも、よくよく考えてみれば、僕は何も経験していない」と。そう、何かを直接体験したり直接経験することがないままにわかった気になるとは、生きているという実感すら奪いとられることといえる。わたしという主体が自己と世界から疎外されることといえる。しかしながら、実感なき情報は、ただの空想的観念にすぎない。決して、なまなましい現実とはならない。自己体験になんら結びつくこともない知識は人の助けにはならないといえる。
 喧噪語に心奪われすぎては、実感なき知識や知的情報に執着し、とらわれながら人生をただ受動的に過ごすことになる。そうなると人生は、空虚で、無意味なものとなる。自己も世界もただの無機質に動きつづける機械的な物質的世界となる。自己も世界も生命なき物となってしまう。煩悩すら自己や世界のものとならず、知的な理解対象の物となりかねないのだ。
 心理相談室こころでは、そうした主体の自己と世界からの疎外感を抱えて、多くの人が自己と世界と主体の一致の実感を求めてやってきているといえる。  (定森恭司)

真の自己に向かって生きる

060 一般的にいって、「私」が、私について語る時、あたかも私のことを知っているかのよう人は語りますが、実は実際には、「私は私のことを知らない」といえます。なぜならば、「私」が私自身について語る時には、どうしても「知る私」と「知られる私」が分離してしまうからです。このことは、「知る私」について知ろうとしたところで同じです。「知る私」と「知る私を知ろうとする私」の分離はどうしてもまぬがれません。この作業はいくら繰り返しても同じです。どこまでいっても「知る」ものと「知られるもの」の分離が無限に続くだけです。ここに人が物事を知識として知ることにおける限界があるといえます。人が知ることができるのは、せいぜい観察対象の限られた部分だけで、そのものの全体とは決してならないわけです。意識的な主体である私が、いくら自己と世界を観察対象として知って生きようとしても、そうした人生の歩みだけでは自ずと限界がやってきます。

 むしろ真の自己や世界に目覚めた生き方のためには、観察主体と観察対象の区分をなくすことにあります。自分が知りたい対象である自己や世界と一体化すること、すなわち無心になることにあるといえます。自己も世界も、ただあるがままの実在として、ただそのままに直接的に体験する時こそ、そこには自己と世界の区分や境界のない真の自己/世界が自覚されます。仏教用語でいえば「無分別智」「悟り」といえます。
 しかしながら、普通、人は、無心のまま生きていることはいくらでもありますが、無心の境地の自覚のまま生きることは難しいものです。一般の人は、何かを意識した途端に、観察主体としての私が生まれ、自己と世界からすぐに分離してしまうからです。

 しかしよくよく考えてみれば、人はこの主体と対象の分離による悩みがあるからこそ、無心の時だった時を、あとで知ることはできます。

 したがって、自己と世界の不一致に絶えず悩みながらでも、ほんの少しでも自己と世界が一致した時の体験に向かって、自己を整えながら生きることが、真の自己に向かって生きることになると思われます。            (定森恭司)

年の終わりに

 年の終わりが近づくと、不思議なもので、今年あったいろいろなことが思い出されます。時の流れを感じることもなく、気ぜわしく日々過ごしてきてしまった1年。年の終わりに1回ぐらいはゆっくりかみしめることも必要かもしれません。静かに大晦日に除夜の鐘の音を家族そろって(日本中の多くの人といっしょに)きく瞬間が大好きです。

 私にとって2011年はいろいろな意味で忘れられない年になるでしょう。
 東北大震災の津波や火災をリアルタイムでテレビで見ていたということ。大変なことを、手の届かないもどかしさとともに、他人事として見てしまっていたことの罪悪感・・・ 
  「科学的根拠」ということの「根拠」のなさ
  不安があっても、誰かが何とかしてくれるという他人事感

  自分のこととしてこの世にかかわっていくことの大切さを思い知らされた今年でした。

                                                        定森露子

言葉におびえる

cimg3627暴力など、直接的に安心感や安全感が脅かされることがなくても、人は社会に流布される様々な言説に振り回され、自分はひょっとすると変でないかと絶えず不安を抱くものです。みんなからすると、私は、鬱にみえないだろうか、引きこもりに思われないだろうか、DVに思われないだろうか、性同一性障害にみえないだろうか、発達障がいに思われないだろうか、と言った具合にです。実際に、誰かに、そのように言われなくても、そうした言葉が社会で流行する度に、ひょっとすると私も・・という形で、みえない他者からの視線におびえてしまうものです。

人に安心感や安全感を提供することを期待されている臨床心理学も、逆に、心の現象をいろいろと言葉でもって概念化することによって、一方では、安心感・安全感を脅かすことにもなっている危険性もあります。それだけに心にまつわる言葉や概念を、どのような文脈で使用するかについては十分な注意を払わないと、問題ばかりをつつきあうことを助長し、相互不信になってしまうことだってありえます。

大切なことは、問題を分析しあうことにはなく、より生きやすい人生の道を共に見つけあっていくためには、お互いをどのように振る舞ったらよいかを発見・創造することだと思われます。

問題にする者と問題とされる者の関係よりも、共に問題を解決する信頼関係という土台を堅固に構築することの方がもっとも重要と思われます。(定森恭司)

駐車場が新しくなりました

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0051 5月の連休を利用して(4/21~5/8)、駐車場を改修しました。それまでの駐車場は「木れんが」を敷いたもので、自然な柔らかい雰囲気が大好きでしたが、耐用年数は10年と言われていて、そのとおりに10年位経つと、れんがの端が雨や車の重みで崩れてきたりして、ちょっと荒れた感じになってしまっていました。

造るのに時間がかかるが、美しく、ながくもつ
 木れんが駐車場を設計してくれた設計事務所に、前と同じでとお願いしたところ、施行業者は「丁寧だが時間がかかるところ」がいいか「早いところ」いいか尋ねられたので、「丁寧」なところでとお願いしました。その「丁寧だが時間がかかる」社長さんというのは、実は「左官やさん」で(昔は大工さん、左官屋さんといった人が身近にいました)、高い技術と誇りと伝統技術の存続に熱意ををもってみえる方でした。伝統的な方法だけでなく、新しいものも常に研究されている方です。よいものを作ろうとすれば時間とお金がかかる、早く安く作ろうとすればできるが美しくないし長く持たない、と言うはっきりとした考えをもっている方。そんな話をきくとぜひ左官の技術をいかした工法でお願いしたくなり、「木れんが」から「洗い出し」工法で駐車場を作り直してもらうことにしました。

洗い出し
  「洗い出し」とは日本に古来からある伝統左官工法の一つで、セメントを敷いた上に種石をまき、その上にまたセメントをこてでおいていく。セメントが硬化しきらない時に表面のセメントを水で洗い流し種石を表面に浮き出させるというもの。日本庭園や寺院などでよく見られます。種石の大きさや色調などで、様々な表情が見られます。

波のような駐車場
 駐車場は曲線と色のグラデーションで変化を持たせました。波のようにも、山々のようにもいろんな見え方がします。晴れた時と雨に濡れた時もまた違っていて、見あきない駐車場です。貝殻が小石に混じっているのを雀がつつきに来たり、錆がでている石(?)もあります。自然の石は二つと同じ色・形がなく、一つ一つみていてもおもしろいです。

 久しぶりに来られた方は雰囲気が変わってびっくりされたと思います。もっと早くお知らせしておけばよかったとおもっています。

  設計  TAS建築設計事務所   http://www9.ocn.ne.jp/~tas/
    施行 (株)岡田建工http://okadakenkou.ninja-web.net/index.htm
                                  http://kino-ie.net/interview_131.html 

                                           定森露子

命にあらためて気づくとき

0121 私という意識(我)は、重篤な身体的病気を患っていないときでも、人生の生きづらさ、生活のしづらさに絶望的になります。しかし、そんな苦悩の絶頂にあっても、そのことにはまったく無関心であるかのように、血の通う身体は、ただひたすら生きることに向かって働き続けます。

 一見、我の所有物にみえがちの身体も、元々、我を超えたもっと脈々と受け継ぎ流れてきた命の営みを受け継いで活動しているといえます。だからこそ、いくら我の意識が絶望的になっても、身体は、ひたすら生きることを常にめざし続けるといえます。

 生きるとは、生まれた時から死ぬときまで、きっと個人的な苦悩を超越した意味をもっているのでしょう。そして、生命のつながりから生まれた私(我を含む自己)という存在は、最初から私の意識(我)だけのものではないことを、身体的自己の方がよく熟知しているのでしょう。

 身体はそうした生命の智慧の宝庫なのでしょう。むしろ私という意識(我)の方が、あまりに当たり前のこうした生命の智慧から離れてしまい、頭でっかちな精神的世界の煩悩に迷い込んでしまうといえます。(定森恭司)

「生きているということ」について

「生きる」ことの意味を見失ってしまったように感じることは、ないでしょうか?

「生き甲斐を持とう」とか「夢を持って生きよう!」とか、声高に言われると、かえって空しさを感じたりすることはないでしょうか?
大きな「生き甲斐」を持たない自分は、「生きる甲斐のない」人生を歩んでしまっているのではないか……
そんなことを感じたりすることはないでしょうか?

谷川俊太郎の詩で「生きる」という詩があります。
「うつむく青年」という詩集に収録されているものですが、震災後、報道されているのを何回か見ましたので、それでごらんになった方もいるかもしれません。

    生きているということ
    いま生きているということ
    それはのどがかわくということ
    木もれ陽がまぶしいということ
    ふっと或るメロディを思い出すということ
    くしゃみすること
    あなたと手をつなぐこと                (後略……)

こんな感じで続く詩です。

「生きている」「いま、生きている」という かけがえのない実感は、意外と、こうした普段の なにげない生活の中の、ほんの一瞬の中にこそ、感じられるものなのではないかな……
そんなことを思います。 (前田由紀子)

自分なりの人生の創造に向かって

                                                                                                 sakura  人生を、生や死から見つめ直してみたとき、
 人生を、生きている意味から問い直しはじめたとき、
  自分なりの人生や、いろいろな人生があることが明らかになります。

  人が、自分自身が自己や世界に対する生き辛さを見つめ直し、より自己と世界が一致していくような道を探し求める結果が、それぞれの人の人生を創造するともいえます。
 こうして人の命の数だけ、かけがえのない様々な人生の物語があるわけです。
 また、ひとりひとりの人生の物語同士が複雑に絡み合いながら、かけがえのない人生が創造されていると思います。

  命あるものは、誰もが代替不可能な存在なのです。           (定森 恭司)

誠実な会話のための条件

 誠実な会話ができる時を振り返ってみると、お互いの感じ方や考え方が、いつも一致しているとは限らないことに気づきます。むしろ、誠実な会話が成立している時ほど、自分の感じ方や考え方とは異なる人がいるもんだなあと、つくづく感心しているものです。 自分とは異なる世界観や常識をもつ人がいることに、日頃から沢山気づくことができている人ほど、世界の多様性と面白さを感受することができているといえます。

 しかし、こうした気づきのためには、次のような条件が必要になります。
  ①問題に対して、お互い自発的な問題解決模索の態度をとること。②自分に対しても相手に対しても、できるだけ率直な態度をとろうとすること。③安心して自己表現できる場づくりにお互い心がけること。
 こうした条件が満たされて、はじめて人は安心して異なる感じ方や考えを相手に語ることができます。

  協働的な雰囲気がある場では、誰もが問題を解決の主体になり得ることに自信を深めます。こうした協働的な場があるからこそ、自らの感じ方や考え方を新鮮にし、それを基準にして自らが判断し、自らが問題を解決していくことができます。そして、自分なりの解決ができながら、自分とは異なる多様な見方や問題解決の仕方があることを実感し、違いに対する寛容さを身につけることもできるようになると思われます。   (定森恭司)

自然治癒の力に触れる

p11001234  現代の心理学は、「こころ」を対象としながら、「こころ」を見失ったような感があります。心理学の研究対象が、認知、記憶、行動、感情、パーソナリティなどに細分化していることの影響があるかもしれません。対象化される「こころ」は、いずれも「こころ」のある側面、機能、作用をさしていても、その全体ではありません。また、「こころ」は、細分化された断片を組み合わせて全体として描こうとしても描ききれません。ある意味で、直観的にその全体を実感する以外にない代物でもあるのです。「こころ」の全体から何かを研究対象として切り取った瞬間、すでにそれは「こころ」の全体ではなくなってしまうのです。どうやら全体と部分を共に対象とすることは、残念ながら不可能のようです。学問的に研究すると、こころの全体から遠のき、全体を実感しようとすると直観的な世界でしか表現できなくなり、科学的な学問から逸脱してしまう矛盾を孕んでいるからです。
 

   しかし、これまでの実に沢山の人との出会いを通していえることは、「こころ」には、自然治癒の力も備わっているということです。しかし、それは、ただほっておけばよいというようなものではありません。自己と世界が適切に出合いつづける方向に「こころ」を精妙に働かせる必要があります。世界内存在として、自己と世界の一致を求める生き方を模索し続けるところに、「こころ」は自然治癒の顔をのぞかせる印象です。

 自己と世界の一致を求めて自己が触れて欲しがっているところを探り当て、自然な自己の流れに素直に従えるようになる時、自然治癒の力が働き出すように思われます。
 

   今・この時、まさにこころが触れたがって貰いたがっているところに焦点をあわせると、自ずと新しい言葉や生き方がわきあがってきます。それは、まさに新しい人生が誕生する瞬間でもあります。   (定森恭司)