場所的自己(4):場所的存在としての自己

自己は、場所的な存在です。自己はかならずをもっています。自己は、場所的存在として、自己自身の生物・神経学的な特性、自然、風土、社会、文化、歴史などと相互に影響しあい相互に限定しあいながら複雑な自己を組織化しているのです。

こうした相互影響、相互限定の中でも、今日の場所的自己にとっては、現代社会のもつ加速度的な高度情報化やグローバル化など、指数関数的に変動していく社会の影響には強烈なものがあります。

現代日本は生きる場そのものが、自然・歴史・伝統文化との密接な関係を喪失しはじめ、たかだかここ数十年で社会的に作りだされた商品・情報・システムで取り囲まれ尽くしてしまっています。場を生きるために自らが道具や物や智慧が生み出す時代は終焉し、自己は、圧倒的な力をもつ社会システムに自らを適合させながら生きることを余儀なくされてきています。

ホロニカル心理学的に換言するならば、自己(場所的自己)は、内我が脆弱になり、社会適応だけに追われる生き方(ホロニカル主体:理)を内在化する外我ばかりが強化されてきているのです。

場所的自己は、ますます生命の時の流れに基づいて生きることは叶わず、社会的に定められた時間に追われながら生きるようになっています。高度情報化社会は、ゆとりをもたらすことはなく、むしろ迅速性、効率性、合理性、変化ばかりを求める社会を形成します。

それでも多くの人は、都会生活で街を歩く時と、登山をしている時では、まったく場所的自己が異なることをまだまだ体感しています。命の溢れる自然と出あいながら生きるのと、喧噪語ともいえる情報が飛び交う社会と触れながら生きるのでは、場所的自己が場に異なるものを実感・自覚することが可能です。しかしながらこのまま場所的自己が変質していくと、自然が眼前にあっても、“こころ”豊かな人がそこにいても、自然や人の命に触れることができない人たちがますます増加していく可能性があります。

未来の場所的自己は、発達過程においても、内我がなかなか育たず、外我ばかりが肥大していく可能性があります。情報ばかりで常に頭がオーバーフローしがちで、思考優位で、失感情的で、理屈っぽく、内我による人と人との共鳴性が脆弱になると考えられます。やがて、そうした場所的自己は、生物・神経学的レベルの次元で次の世代にエピジェネティックな影響を与えていくとも考えられます。

内我は、豊かな実体験によって育まれます。内我が、快・不快程度の情動の区分からはじまって、複雑な感情や情緒を形成して行くためには、場所的自己が社会的なものばかりでなく、自然、歴史、異文化など、さまざまなものに実際に触れ体験することが必要です。豊富な体験に欠ける内我は、外我の制御を失った途端、とても憤怒しやすく、衝動的で多動傾向をもつと考えられます。

こうした傾向は、ますます発達障害、精神障害などを増加させる可能性もあり、これまでの個人病理中心の精神医学や臨床心理学の症状形成論をもっと場所的自己の観点から見直しを迫っていく可能性があると考えます。