ホロニカル心理学の研究方法

ある箱庭

心理学が科学であろうとすると、多層多次元にわたる“こころ”の現象を客観的に観察し、その因果をできるだけ現実に即して分析していく必要があります。科学的研究の裏付が科学としての心理学には求められるからです。こうした研究姿勢の時には、できるだけ特殊な事情を考慮するのでなく、一般化できる普遍的法則を探究することになります。事例の研究だけではなく、多くの事例の累積データーの分析から“こころ”の現象の中で、できるだけ一般化できる法則を発見していこうとするわけです。

しかし、ここで重大な問題あります。心理学では、いくら客観的に観察するといっても観察する主体自体が“こころ”の主要な作用のひとつである「意識する主体」である限り、観察結果は、観察主体の主観に左右される影響を完全に排除できないという現実です。“こころ”を観察対象とする時の観察主体は、“こころ”の外の立場に立つことは不可能なのです。そのため、観察主体はどこまでいっても客観的なものとして普遍的主体として定めることができず、「ある観察主体の状態からみたら・・」という限定を免れることができないのです*1。

その結果、「ある観察主体の立場から“こころ”の現象を観察対象としたら、○○であることがわかった」という記述になります。しかも、ある観察主体が、多層多次元にわたって自在に変化する“こころ”の現象を観察対象とする時、その全体をそのまま観察することは不可能です。どうしても“こころ”の現象のある側面を観察対象として焦点化することになります。

例えば、同じ戦場にいる人間同士でも、Aさんは悲惨な戦場を眼のあたりにして、命をかけて戦う覚悟を決めますが、Bさんは「もう生きる希望は一切失った」と自ら死を選ぶという大きな差異となるわけです。動物ならば、回避・逃避行動か麻痺行動などある程度類型化できるパターンを発見することができます。しかし歴史的文化的な存在でありかつ複雑な感情をもつ人間の場合には、実に個性的で多様な反応があるのです。

そこでこうした心理学を科学的なものにしようとするならば、不確実性の問題に向き合う必要があります。そのためには、次のような工夫を図る必要があります。それは観察主体を固定化させず、「観察主体と観察対象の関係自体を扱う」という新たな視点の導入です。どのような観察主体からどのような観察対象に焦点化してどのように観察するとどのような観察結果になるかという無限の組み合わせの考えられる大量なデーターを蓄積する中で、できるだけ確率の高いパターンを発見・創造していくという研究方法です。スーパーコンピュータやAIなど情報科学の加速度的進展は、こうしたアイディアを実行可能なものにしつつあります。

しかし、こうした最先端技術を駆使した研究でも、それだけでは、“こころ”の全体像はまったく把握できません。大量なデーターの分析の割に発見できる“こころ”の一般法則はあまりに限られたものとなり、しかも物理科学とは違って、その有効性の確率は低い値になると考えられます。かけがえのない自己の多様な現れをする“こころ”の理解とは、アプローチが真逆になっているからです。

そのため“こころ”の一般法則を探究する方向ではなく、特殊な現象の研究から一般化できる法則を発見していこうとする方向もあわせて研究していく必要があります。

観察主体と観察対象の関係の差異が無限になってしまう研究方法とは真逆に、観察主体と観察対象の関係の差異を無限に縮める方向に向かって研究する方向です。観察主体の微妙な変化ですら変化してしまう“こころ”の現象を、できるだけありのままの全体像を直覚していく方向です。観察主体をできるだけ無にして観察対象と一となった瞬間の実感・自覚に基づいて心理学の智慧を発見・創造していく方向といえます。前者は蓄積されたデーターの解析を必要としますが、後者は研究者自身が観察主体を無にしていくような内観的姿勢が必要となります。

前者の研究による解析結果は、後者による方法で人々の多くが実感・自覚的することによって実証されていく必要があります。前者の研究方法で発見された知だけでは、ただの知識であり、ただの記号や数値にすぎません。実感・自覚を伴なわない心理学は心理学とはいえません。それでは機械的な乾いた心理学になります。理知的な論理だけを成果とする感性なき心理学になってしまいます。それでは、誰もが実感している“こころ”の研究とはいえません。それでは活きた心理学にはなりません。それでは役に立ちません。前者は後者によって裏付けられた時、はじめて活きた心理学となります。また後者も前者によって裏付けられた時、科学的にエビデンスのある心理学となります。しかしながら、後者のような特殊現象の体験的累積の中に含まれる一般法則の発見は、心理学の場合は実感と自覚に基づく発見以外の道はないかと思われます。分析や解析だけでは心理学になりません。分析・解析されたものと全体との関係が統合的に理解されなければ心理学とはいえません。そして、何よりも、実感と自覚を離れたならば、もはや心理学ではないと思われます。

注1: “こころ”の研究を心理学ではなく、科学の立場から研究しようとする人たちの中には心脳同一説で物理主義の立場の人がいます。その立場に立つ人は、観察主体という意識の立場を離れ、脳の研究から一般法則を目指すことになりますが、そうした立場の研究者も、物理科学主義の立場にある観察主体が、観察対象として、あくまで脳の反応を研究し、その結果でもって“こころ”の現象のある一面を語っているだけとホロニカル心理学の立場では考えます。