ネットワーキング

人のつながりのイメージのイラスト当事者を抜きにした対人援助支援会議の多くは、労が多い割には、案外、上手く機能しないものです。

当事者が不在の場合には、有効な実践的智慧が見い出せないまま、関係者の理念の差異や空論による対立が展開しがちだからです。また、当事者が参加した途端、当事者が不在の時は、支援会議の場の雰囲気を決定づけていたほど、強気で当事者の批判ばかりしていた関係者が、急に態度を変えるのもよくあることです。

それだけに当事者参加型の支援のためのネットワーキングの構築が望まれます。しかし、もしも当事者の参加が何らかの理由で叶わない場合でも、せめて当事者と上手く関われているキーパーソン、あるいはその可能性の最もある人がネットワークに参加していることが重要です。そしてそのキーパーソンを中心として、これまで上手く関われてない人は、どような態度で支援が、これまで上手くいかなかったかを安心して自己開示できるような場が大切となります。

支援を目的とした集まりであれば、一体どのような対応を、どこの誰が、具体的にどのようにすると、当事者の方の生きづらさがより生き易くなるかを、みんなで智慧を出し合っていける場を構築することが大切になるのです。そうしたネットワークキングは、当事者と「親密な他者」となる「キーパーソン」を幾人か生み出し、リスクの共有や小さな変容をみんなで共有し合うことが可能になります。人生を生き延びるための智慧の学びあいの場が、当事者あるいは当事者の信頼するキーパーソンを中心にした「適切な観察主体による俯瞰」を可能とするような共創的なネットワーキングを可能とするのです。

当事者を含み、実際にそのケースに関わりのある人たちが、地縁・血縁に替わる「新しい適切な観察主体による俯瞰」による共創的な支援的保護的ネットワークを形成することが大切なのです。

しかし現実は想像以上に対立的で意見も錯綜します。児童虐待の例でいえば、当事者が不在だったり、キーパーソンが不在だったりすると、在宅支援では最早限界で社会的養護(児童福祉施設や里親による対応)にすべきと主張する人と、いや在宅支援でいくべきという全く意見が異なる方針で対立する場合などが、ネットワーク化を破壊する大きな要因となります。こうした時には、法的・行政的責任を憲法・法令・要綱等やこれまでに培った実践の智慧などを手がかりに関係者の少しでも折り合っていける方向を模索し、実際の経過を見定めていくしかなくなります。大切なことは、はじめから正しい答えなど、どこにもなく、実践の中で、より望ましい答えが明らかになってくることをせめて関係者が共有していくことにあるといえます。

ネットワークに参加する人は、持論や信念を披露するのではなく、意見の対立や不一致に伴う不確実性に耐えながら、みんなで経過を見極めながら、よりよき方向を見定めていく姿勢が求められるといえます。