「大きな物語」の終焉

トリクルダウンを象徴するコップから溢れる水のイメージ写真
トリクルダウン

フランス人哲学者のジャン=フランソワ・リオタールが「ポストモダンの条件」(1979)で提示した概念に「大きな物語」があります。この観点を使って、ここ20~30年間の日本を振り返る時、<強い者が頑張って働いて、お金を稼げば、国全体の富が豊になり、その富が、働くことが難しい弱者にまわって、みんなが幸せになる>というトリクルダウンによる神話的パラダイムが、まったくの幻想であり、根本的に矛盾だらけだったということに、研究者を含め、ほとんどの人が気づきはじめたと思われます。

この神話は、確かに、ほんの一部の人たちだけには有効だったようです。一握りの人は、あまり頑張って働かなくても資産運用によって得られる富を特権的に独占することができたようです。しかし、それ以外の者は、ほとんど弱者として、働いても働いても富は増えず、それどころか、加速度的に変動する苛酷なスピード社会に、自然の時に生きることすら難しくなり、ますます社会に追い詰められ、膨大な数に上る人が心身を病んでいくばかりであることが明らかになってきたと思われます。

しかし、ここ最近になって、ついに次の新しい社会の到来を予感させるような、「小さな新しい物語の共創」が局所的に至るところで散見されるようになってきました。不快な思いしかしない競争原理の社会を半ば無視する形で、弱者同士が仲間と共に、より生きやすい道を、これまでとは比較にならない圧倒的な楽しさのもとに共創的に生きる中で発見・創造しはじめてきたのです。

どうも「競争」に強い人と思っていた人たちも、案外、「共創」には弱いようです。共創を求める人が、強迫的な競争から、健全な諦めのようにして、あっさりと降りてしまうことに対して、競争してきた自身が競争をいつまでもやめれない自分自身に焦りを抱きだしたり、社会の人から思っていた以上の賞賛や支持を得られなくなりだしたことへの恐怖と不安を募らせ、逆上するか、さもなくば生きる基準の混乱から、ついには心身の不調すらきたすようになってきたからです。明らかに「大きな物語」の終焉が近づいていると、これまでの権威が自壊しはじめているように思われるのです。