「純粋な気づき」(自己超越的なホロニカル体験)

「純粋な気づき」とは、自己超越的な体験と思われます。「自己超越体験」といっても、大それた体験ではなく、むしろ、ありふれたことであり、何ら曇りもなく、すべてを、直下の直観のままに捉えることです。

ホロニカル心理学で、「ホロニカル体験」と呼ぶものです。

「真実の発見」「公理の発見」「真実の言葉の発見」と呼ばれるものも、「純粋な気づき」による超越的体験である「ホロニカル体験」に基づくものと思われます。

自己超越的とは、普段の私たちの経験に基づく認識や言葉による理解を遥かに超えているということです。しかし経験や言葉による理解を超えているからといって、感じていないのとは全く違います。

自己超越とは、通常の経験的な意識による理性的な理解の枠組みでは届かないという領域のことです。そうした別の枠組みによる了解、すなわち「純粋な気づき」が、「ホロニカル体験」をもたらすのです。

自己超越的体験においては、すべてが「永遠の今」となり、共時的で瞬間・瞬間が同時顕現的世界の体験となります。

ふと気づけば、悶え苦しむ人間の傍らで、春の陽気に刺激されたスズメの方が、「純粋な気づき」の世界に、どうやら生きているようです。スズメは、瞬間・瞬間、ありのままに世界に開かれた心持ちで、気持ちよさそうに、さえずりあっているのです。意識していることを意識して苦しむ煩悩だらけの人間と違って、スズメの方が、どうやら、いつも世界に開かれた「純粋な気づき」による「ホロニカル体験」を創造不断に体現しているようです。

しかし私たちも、また、そんなスズメの純粋なさえずりが聞こえて、理性による我の働きを失った瞬間、ごく自然に命の息吹に目覚めることができます。

自己超越的体験を、神秘主義的体験として語る人がいますが、それは錯覚でしょう。スズメの方が、いつも我の意識もなく、自己超越体験の世界に生きていると理解するとき、自己超越体験とは、そこら中の動植物の方が普段体験しているごく当たり前の世界のことと気づきます。

「ホロニカル体験」とは、神秘的体験ではなく、無為自然な境位のことです。ただし、「我」の意識が強い人には、なかなか「我が無となれず」、苦労するかも知れません。といって、我が弱すぎても、「ホロニカル体験」に対して、この世とは別の世界に理想の精神世界があるかのような幻想を抱くこともあります。

無我でありながら、自己の中心を失わず、世界と一体となるという、実に、その加減が難しいのは事実です。「ホロニカル体験」は直観によります。直観とは、言語による認識が脱落し、自らスズメになって、世界と触れる時、純粋な気づきの世界は、必ず向こうからやって来る出来事です。それは、誰もが気づくことなく、意識することもなく、命の営為として、ごく自然に絶え行われていることに目覚めるだけのことでもあるのです。未来の目標ばかりに気を取られて、「今・ここ」に生きることを忘れ欠けている現代人にとって、「ホロニカル体験」によって、命の働きに目覚めることがとても大切になってきていると思われます。

 

創造不断:井筒俊彦が、西洋の絶対的時空概念に対して、東洋的時間意識として明らかにした概念(井筒俊彦著.コスモスとアンチコスモス.井筒俊彦全集,第9巻.慶應義塾大学出版会.2015.pp106-185)

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