“こころ”とは(30):“こころ”そのものを観察できない

私たちは、“こころ”の働きによって、考えたり、感じたりしています。

しかし、そうした“こころ”の働きの全体そのものを観察対象として観察することはできません。

観察しても、観察結果は、あまりに複雑かつ無限です。たとえ、ある面が“こころ”の観察結果として明らかになっても、無限の可能性を持った“こころ”の全体の働きが、ある面のみに収束収斂した結果であり、“こころ”全体そのものは背景に後退してしまっていて観察することができません。

“こころ”の全体的働きを、あれだけ常日頃、実感・自覚していながら、“こころ”そのものを観察しようとした瞬間、観察しようとする行為そのものが影響して、“こころ”の作用を制限してしまって、“こころ”そのものは雲隠れしてしまい、“こころ”の全体そのものを測定したり、可視化することができなくなるのです。

実在する“こころ”の全体そのものは、無限に観察し続けたとしても発見することはできず、結局、観察しようとすることなく、実感・自覚するしかないのです。

また観察された“こころ”の働きは、“こころ”の全体を包摂したある部分といえます。むしろある部分は、“こころ”の全体を構成する機械のような部分ではなく、ある部分そのものに“こころ”全体が包摂されていると考えられるのです。

“こころ”の世界では、部分が全体を包摂し、全体が部分を包摂するホロニカル関係(縁起的包摂関係)が成立すると考えられるのです。