一即多・多即一(5):絶対無の自己否定

「絶対無(空)」が、すべての現象の根源であり源泉ではないかと、ホロニカル心理学が語るとき、「絶対無(空)」が、「まったく何もない」という「虚無」という意味ではありません。むしろ、「絶対無(空)」が、識別・認識する作用を含む、すべての現象を生み出しているのではないかと問題提起しているのです。

「絶対無(空)」自身が、自己否定的に、一瞬・一瞬、生成消滅を繰り返しながら、あらゆる現象を創造していると考えているのです。

「絶対無(空)」が「絶対無(空)」自身を自己否定する揺らぎのような現象から起きる無限の波の重ねあわせともいえるコズミックダンスによって、重々無尽の多様な織物のような華厳的世界が創り出されているのではないかと考えているのです。

ホロニカル心理学でいう“こころ”とは、こうした「絶対無(空)」の作用面のことといえます。

すべての存在が「絶対無(空)」から創造されているということは、どのような存在であろうと、「絶対無(空)」を含むものであるといえます。そして、万物同士は、「絶対無(空)」を媒介に、すべてがつながっているということを意味します。

ある存在Aは、他の存在B、C、D・・・と異なるA独自の振る舞いをします。しかし、それぞれ自律的に異なる振る舞いをしながらも、ある存在Aは、A自身と他のB、C、D・・・といったあらゆるものを生み出した「絶対無(空)」を包摂しています。ある存在Aは、他のあらゆるものを包摂しながらAとして振る舞う「絶対無(空)」でもあるということになるのです。

ここに「AがAなのはAがAでないが故にA」という鈴木大拙の即非の論理が成立します。即非の論理は西田幾多郎絶対矛盾的自己同一の論理と同じです。東洋のテトラレンマの論理も関係してきます。

すべてが「絶対無(空)」から創造されるということは、すべてはもともと意味連関をもつ絶対的一ということです。絶対的一でありながら、すべての存在は、他の存在との差異をもつことで、あたかも固有の自存的な存在として立ち振る舞います。しかしながら、いかなる固有性をもって振る舞うものも、永遠・普遍的なものなどなに一つとしてなく、いずれは変化する無常なものであり、究極的には、「絶対無(空)」からなるものといえるのです。

あらゆる存在には、場や他の存在と関係なく、それのみで主語的に自律自存するような本質や自性性はないのです。A、B、C、D・・・という無限に差別される存在は、すべて縁起的包摂関係(ホロニカル関係)にある全体的一なるものの多様なひとつの顕れと思われるのです。

一即多、多即一といえるのです。