絶対矛盾的自己同一
「絶対矛盾的自己同一」は、日本の哲学者である西田幾多郎の概念です。
一見、対立して相容れないものが、見方を変えると同じものであるという意味です。矛盾・対立するものが弁証法的に統一されていくとするヘーゲルやマルクスの弁証法でいう矛盾の捉え方とは異なります。矛盾が矛盾のままでありながら自己同一にあるという意味と理解されます。華厳思想の「一即多・多即一」や鈴木大拙の「即非の論理」と、「絶対矛盾的自己同一の論理」は同じと西田は考えました。西田は、「現在」や「世界」が、絶対矛盾的自己同一そのものと考えます。
ホロニカル心理学でも、自己と世界も絶対矛盾的自己同一にあると考えます。自己と世界の両者が、直接体験において、相矛盾し対立しながら同一にあるわけです。
自己と世界の一致・不一致の直接体験が、「生きている今・現在」という感覚をもたらします。「今・現在」とは、「過去と未来を含む今の直接体験」のことです。
直接体験の直覚そのものから離れた途端、自己と世界の関係は、観察主体としての自己と観察対象としての世界に別れてしまいます。元来同根同一だった自己と世界の関係が、自己と非自己化された世界に分断され、不一致となってしまうわけです。直接体験レベルでは、自己と世界が矛盾しながらも同一であったものが、直接体験では、一だったものが、忽然と、対立・矛盾しあいながら存在する多の世界に変化してしまうわけです。
「一即多」と華厳教などで表現される現象です。
自己と世界が一致の時は、観察主体は無(無我)となっています。無心になって、物となって見ていると言い換えられます。世界となって見ているともいえます。
しかし、自己と世界を自覚する観察主体がある時は、自己と世界を見るものと見られるものが対立・矛盾することになるのです。
自己と世界の関係は、自己=世界、自己と非自己化された世界が、絶対に矛盾しながらも自己同一にあるといえるのです。