観察主体と観察対象(1)

“こころ”のことを、科学的、哲学的、理論的に考えようとする時、忘れがちになってしまう重要問題があります。

実は、“こころ”を観察対象とした途端、“こころ”は観察する側と観察対象とされる側に別れてしまうということです。別れてしまったとき、観察しようとする私(主体)は、あたかもこの世の世界から離れた別世界にいるかのような存在になっています。しかし、実際には、それは錯覚です。“こころ”を観察しようとする私が、世界の外側にいることは、観察しようとする私そのものが“こころ”の働きを実感しながら世界の内に存在し生きている限り不可能なことです。

しかしながら、じゃあ今度は観察しようとしている私を含んで“こころ”のことを考察しようとしても、今度は観察しようとしている私を俯瞰しようとする観察する私をどのように扱うかという問題(無限後退)がどうしても残ってしまいます。結局、“こころ”の現象では、“こころ”を観察しようとする観察主体(主観)と観察対象(客観)としての“こころ”を簡単に区別して扱うことができないというやっかいな壁が立ち塞がっているのです。

このやっかいな問題は、“こころ”の問題を考える時、さらに次のような問題を引き起こします。観察しようとする私が、一体、“こころ”の問題に何を発見しようとするかで、“こころ”の問題の次元そのものまで変化してしまうということです。“こころ”の問題に感情に関する問題を見つけようとすれば、“こころ”の問題と感情の問題とのつながりを発見できます。また、“こころ”の問題に認知の働きに関する問題を見つけようとすれば、“こころ”の問題と認知の問題のつながりを発見できます。また、“こころ”の問題に脳の働きに関する問題を見つけようとすれば、“こころ”の問題と脳の働きの問題のつながりを発見することができます。また、“こころ”の問題に、社会・文化に関する問題を見つけようとすれば、“こころ”の問題と社会・文化の問題のつながりを発見できるのです。

このように、“こころ”の問題を考える時、観察しようとする人が、どのような姿勢で何を発見しようとするという構えそのものが、“こころ”の現象に影響してしまうのです。“こころ”の考察や“こころ”の問題は、ニュートン力学のように普遍法則化できず、観察主体(私)と観察対象(“こころ”)の関係を抜きに語ることはできないのです。