※「IT(それ)」は、2024.11.20以降、「それ(sore)」に統合されています。以下のブログは、統合前のものです。
完全な統合はあり得ないとホロニカル心理学では考えます。しかし統合化に向かうことはあり得ると考えます。
安全で安心できる適切な場を得るならば、誰でも相対立する要素や声を統合化していくような対話が可能と考えます。しかし、その場にたったひとりでも自分の主張にすべてを統合化を図ろとする者がいると、必ず抵抗したり、反抗する者が出ると考えられます。
このことは自分自身が観察主体となって、自らの“こころ”の様々な相対立する要素や意見(声)と対話を試みる時でも同じです。
人は、安全で安心できる保護的容器のような場を得ることができるならば、相対立する要素や声の相互作用のうちに、新しい要素や多声的な和音を創発し続けていくことができると考えられます。しかし、すべての要素や意見(声)が統合され尽くすということはあり得えないと考えます。すべてを統合するということは、すべてを一にすることです。観察主体と様々な観察対象をめぐるあらゆる不一致をすべて一致させ一にすることです。
しかし人は、自己意識が無となって、自己が場そのものになってすべてが一となる体験(ホロニカル体験)を得ることができたとしても、その体験を他者に強要することはできないのです。世界中の宗教・思想を完全に統一することは不可能と考えられるのです。すべてが一であることを頓悟できても、それをこの地上世界において現実化できないという絶対的矛盾が横たわっているのです。
自己意識が無となっている時は、言葉を失っている時であり、自覚の対象も語るものを超えているため、それをそのまま誰かに完全な形で伝えることができないのです。伝えようとする相手も場と一体となる体験を自ら得るしかないという限界が伴うのです。しかも、両者が同じ体験かどうかを確実に照合する手だてにも限界が伴うのです。自己意識が無となるとは、あらゆる観察主体と観察対象の差異がなくなり、すべてが一(すなわちゼロ)になることです。しかしそこには観察する主体や観察対象のあらゆる差異も識別されるものもないということです。すべてがゼロということです。すべてがゼロということの実感・自覚を各々が深めることをできても、それが同じであると論証することには、自ずと限界がつきまとってしまうのです。逆にいえば、こうした限界を前提とした統合化に向けての対話ならば可能といえるのです。
ここで相対立する要素や信念の統合化を図る働きをもつものを、「IT(それ)」と呼ぶことにします。この時、「IT(それ)」が「私」をすべて動かしていると断言することは、「私」における主体的判断の責任を放棄し、すべての責任を「私を超えたIT(それ)」のせいにするという意味でとても危険な思想となります。また、ある個人が「私がすべてを統合する」と超人的な思想をもつことも危険と考えます。自己と自己超越的なものを融合させることは危険といえるのです。
ホロニカル心理学では、自己のうちに自己超越的なるものが包摂され、自己超越的なるもののうちに自己が包摂されていると、自己と自己超越的なものとのホロニカル関係を重視しますが、自己と自己超越的なるものの不一致も重視しているのです。
ホロニカル心理学では、自由無礙な俯瞰によって、できるだけ観察主体と観察対象が一致していく生き方を促進していくことを大切にします。自ずと統合化する方向を見定めていくことが大切と考えていても、自然のはからい(「IT」(それ)の働き)を超えて統合を図ろうとすることはとても危険と考えているのです。