無:老子とホロニカル心理学の視点

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「無」とは、虚無という意味ではなく、名がないことと捉えれば、老子的には「無名は天地の始めなり」となります。

私たちが「何かが有る」というときは、「名前」をつけているといえます。名をつけるとは、他とは区分すべき何らかの「本質」を識別していることによります。

ホロニカル心理学は、名をつけた後と前の差異を、観察主体と観察対象の不一致・一致による差異のテーマに変換します。名をつけるとは、観察主体が何か本質を持ったものを観察対象として識別し,言葉を与える行為といえます。そして何かを本質として識別する前は、観察主体と観察対象の区別すらない状態を意味します。

観察主体と観察対象の区別がないとは、観察主体の意識を無とし、自己が主客合一して自己が直接体験そのものとなることといえます。

西田幾多郎の「物となって考え、物となって行う」であり、「我」を無化し、「無我」「無私」となって、出来事そのものとなることです。華厳思想の事事無碍の世界にあることといえます。

こうした一切合切が言語脱落して、名のない出来事だけになる状態とは、仏教のいう、それ自身でだけでもって独立して存在する本質など何もない無自性の世界と考えられます。

ホロニカル心理学的には、聖人や哲人は、言語によって重々無尽に識別される表層意識による「有」の世から、言語脱落、身心脱落した深層意識による「無」の世界にいたるまでを深く実感・自覚していると考えられます。しかしその意味では、誰もが、「我」の意識を働かせる前は、観察主体と観察対象が一致した融通無碍の世界に既に生きているものの、この事実に気づくことなく、普段は、自己と世界が不一致となり言語で識別された我の表層意識の世界に生きていると考えられます。

聖人や、哲人と凡人の差異は、出来事に対する意味の実感・自覚の深浅の差異といえます。