相即相入

“こころ”とは複雑です。しかし複雑でありながら、ある気持ちのAに焦点化すると、他のB、C、D・・・という気持ちは意識下に追いやられてしまいます。追いやられるといっても決して無くなるわけではなく、Aという気持ちの背景に包摂されてしまいあたかも他の気持ちは無いかのようになります。Aという気持ちだけが顕在的になり、他の気持ちは潜在的になります。

ある人が、足を踏み鳴らしながら絶叫しています。この時、<怒っているのですか?>と問えば、その人は「ええ、怒っているのです」と答えるかもしれません。がしかし、目頭に涙が溜まっているのを見つけて、<悲しいのですか?>と問えば、「ええ、悲しいのです」と答えることだってあるのです。激情とは、もともと言葉で言い表すことが困難なものです。その困難な激情に対して、複雑な気持ちに名を与えた途端、B、C、D・・・など非Aの他の気持ちが、Aの気持ちの背景に沈み込んでしまうのです。そして、非Aは、Aに包摂されてしまい、あたかも全体がAのごとくになってしまうのです。

複雑な気持ちとは、本来ひとつです。が、しかし、Aという気持ちに焦点化するとあたかも全体がAになり、Bという気持ちに焦点化するとあたかも全体がBのごとく変化するのです。

複雑な気持ちとは、A、B、C、D・・・など多面的な気持が相即相入関係にあるといえるのです。気持ちAの時には、他のB、C、D・・・はAの気持ちに包摂されて、Aという全体の気持ちになり、気持ちBの時には、他のA、B、C、D・・・はBに包摂されてBという全体の気持ちになり・・・・ということが言えるのです。この時、それぞれのAの気持ちと、Bの気持ちと、Cの気持ちが、それぞれに微妙に異なり独立していますが、しかし、そのすべてが複雑な気持ちという点ではひとつの気持ちといえるのです。

複雑な気持ちという全体には、A、B、C、D・・・が含まれており、かつそれぞれAには、B、C、D・・・が包摂されて全体Aになり、同じように全体B、全体C、全体D・・・という気持ちがあるといえるのです。

“こころ”は実に不思議かつ複雑です。まさに何を“こころ”に見ようとするかで、その“こころ”の顕れ方そのものが変化してしまうのです。

 

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