自己と世界の出あい:絶対的意志と自己決定

私たちは、自己と世界の出あい不一致・一致直接体験を、外我と内我の対立・矛盾の相克という形で転換しながら、その都度、その状況に応じて、ある何かを選択的に自己決定しながら生きています。

外我とは、外的対象との関係を司る我の意識のことです。外的現実主体とも呼びます。外我に対して、内我は、内的対象関係を司る我の意識のことです。内的現実主体とも呼びます。

自己決定において、主体的決定が尊重されるべきとよく言われます。この時、内我(内的現実主体)の欲求の充足や自己主張を重視すべきという捉え方があります。しかし、外我は内我の欲求充足的な暴走化を監視・検閲しようとします。といって、外我(外的現実主体)優位な意思決定は、内我(内的現実主体)にとっては生き辛さとなります。

適切な自己意識の発達とは、外我と内我の対話の中で、自己と世界の出あいが、できるだけ一致する方向に向かって、適切な外我と内我の関係を樹立していくことといえます。自己と世界の出あいが一致する瞬間とは、自己と世界の関係が無境界(ホロニカル体験)になることです。主客合一です。自己と世界の関係が、主観と客観に分岐する以前です。したがって自己と世界の出あいの一致の瞬間は、外我も内我も意識の働きが無となって、自己と世界の出あいの直接体験そのものになります。自己=世界=直接体験になっています。しかし、自己は個としての自己を自己組織化しようとする限り、もともと無境界の関係にあった桃源郷だった世界を非自己化します。自己と世界の出あいの不一致の瞬間に、自己と世界が同時に生成されます。自己が個としての自己を主張する限り、世界と区別される自己を自己組織化せざるを得なくなるのです。こうして、適切な自己意識の発達とは、こうした自己=世界=直接体験を自己照合の手がかりとしながらも、より自己と世界の出あいが一致していくような、自己を自己組織化せざるを得なくなるといえるのです。そのために自己は、外我と内我の対話の中で、両者の関係ができるだけ一致していく関係を目指しながら適切な自己を自己組織化していくことになります。自己と世界の出あいの一致を求めていくところに自己の絶対的な意志が働くといえるのです。