現代社会において、多くの人々は自己の内面に存在する“こころ”を自我と理解し、外的世界から独立したものと捉えています。これは、「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの心身二元論的なパラダイムが常識となり、“こころ”を意識の産物であり、身体的自己内に限定された働きと見なす傾向が強いためです。
しかし、ホロニカル心理学では、心と身体を対立するものとは考えず、身心一如の関係として捉えます。さらに、“こころ”は無意識を含む意識(精神)現象面と物質現象面の両方を持つ働きと考えます。自己と世界、内的世界と外的世界の区別も、もともと究極的な一なるリアリティの現象に対して、“こころ”が区別を創り出していると見なします。仏教的に言えば、これは“こころ”の無明の働きによるものです。
したがって、“こころ”は私のものではなく、“こころ”が私を創り出しているといえます。
世界のあらゆる現象や万物は、相互に不可分な関係として縁起的に作用し合いながら、究極の一なる全体を創り出しています。したがって、「“こころ”は私のものではない」のです。「“こころ”を私のもの」と思うようになったのは、神的支配から解放され、デカルトにはじまる近代以降の「近代的な自我」の歴史的・文化的な影響によると考えられるのです。
古代日本では、“こころ”は身体や自然、神々とのつながりの中で捉えられていました。例えば、「古事記」や「万葉集」などの古典文学には、自然や神々との一体感が強調されており、“こころ”は個人の内面だけでなく、外界との相互作用の中で存在していると考えられていました。自然の中に神が宿るという「八百万の神」の思想も、“こころ”がこ外界と切り離せないものであったことを示しています。
現代の日本人は、表層意識のレベルではデカルト的な二元論の影響を受けつつも、深層意識のレベルでは、山川草木に“こころ”の働きを感じ取る伝統的な“こころ”の捉え方が引き継がれていると考えられます。