
「私が何を意識する」と表現するとき、この「私」とは一体何者なのかという問いが残ります。意識の主体を「私」と呼ぶこと自体に、実在性をめぐる哲学的な根拠をめぐる問題が潜んでいるのです。
デカルトは、この問いに対して「思惟する我」が必ず実体として存在する、と宣言しました。すなわち「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」です。しかし、この「我」は厳密には実体として与えられた存在ではなく、むしろ「意識という働きの中で知的に構成された我」であると理解する方が妥当です。したがって、デカルトの「我」は、絶対的基盤としての実体ではなく、意識の反省によって立ち現れる概念的存在といえるでしょう。
ホロニカル心理学では、この問題を次のように考えます。すなわち、「何かを意識する場」こそが自己であり、その中心的契機として「我」が立ち顕れるのだと捉えます。ここでいう「我」は固定的実体ではなく、意識の場における関係性の結節点として理解されます。
私(我)が、何かを経験したり、意識したりするのではなく、経験したり意識したりするのが、私(我)言うことになります。哲学者・西田幾多郎は『善の研究』(1911年)で『個人あって経験があるにあらず、経験あって個人あるのである』と述べ、『自覚について』(1943年)では『世界が自覚する時、我々の自我が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する』と表現しました。
こうした立場は、自己を場的・関係的にとらえる新しい視座を提供し、伝統的な近代的自我論の実体論を脱構築する可能性を示しています。