
主語と述語の関係に即して考えると、西洋哲学はアリストテレス以来、「主語となって述語にならない方向」において「我」を捉える傾向を強めてきました。すなわち「我」とは、事物を理性的に判断する主体であり、自然や世界から切り離された分析の基盤として理解されてきたのです。この背景には、“こころ”の現象を個人内に閉じた出来事として捉え、心身二元論的な実体とみなすパラダイムが存在します。デカルトにおける「我」、カントの「超越論的統覚」、そしてフッサールの「超越論的自我」に共通するのは、主体を根拠づける構造を強調する姿勢であり、主語的な方向の優位性が見て取れます。
これに対して、東洋思想は「我」を“こころ”が生み出す妄念と捉え、本来的には「無心」あるいは「無我」として理解しようとする傾向があります。そこでは、主体を固定的な基盤として把握するのではなく、すべての現象を包摂する述語的な方向が重視されます。その極限には、すべてを無限に包摂する「無」の場を見出すのです。たとえば仏教における「色即是空・空即是色」の思想や、西田幾多郎が論じた述語の論理に基づく「絶対無の場所」という概念には、この述語的包摂性の典型が示されています。
この対照的な構造は、哲学的自我理解における「主語中心性」と「述語的包摂性」の差異を浮き彫りにします。西洋哲学が主体の同一性と自律性を強調するのに対し、東洋思想は関係性と空性を通じて自我の非実体性を照らし出すのです。したがって、「我」をいかに位置づけるかは、主語と述語の論理構造に対する哲学的態度の差異に深く結びついているといえます。