
近代科学の発展は、単に技術が進歩したというだけではありませんでした。それは、人間がそれまで自明とされてきた神話的世界観や宗教的権威を批判的に見直し、理性によって普遍的な真理を探究しようとした歴史的転換でもありました。啓蒙思想は、伝統や権威に従うだけではなく、自ら考える主体として人間を位置づけ、科学的探究を大きく前進させました。デカルト以後の近代哲学は、とりわけ疑い、反省し、明証性を求める主体の成立を重視し、そのことが近代科学の方法論と深く結びついていきました。
この流れを、ホロニカル心理学の立場から見るならば、近代とは、既知のホロニカル主体(理)をいったん相対化し、そこから距離をとる観察主体が強く形成された時代であったといえます。共同体に埋め込まれた感性的・神話的な統合から、主観的なものを批判的に吟味しつつ、客観的・普遍的なものを求める意識が前景化したのです。いわば、近代的自我の覚醒と近代科学の成立は、同じ歴史的運動の両面であったと考えられます。啓蒙のプロジェクトは、宗教的権威からの解放をもたらす一方で、理性を人間理解の中心に据えることで、新たな世界の秩序を切り開きました。
しかし、その成果は大きかった反面、代償もありました。理性を中心とする近代的世界観は、主観と客観、精神と身体、理性と感性を切り分ける傾向を強めました。とりわけデカルト的二元論は、近代科学の精密な対象把握に大きく貢献した一方で、人間を生きられた全体性のなかで捉える視点を弱めることにもつながりました。現象学、とくにフッサールやメルロ=ポンティの系譜は、この切断に対して、主観と客観はもともと切り離された実体ではなく、身体を媒介として相互に立ち現れるものであると捉え直そうとしました。
さらに批判理論の系譜では、啓蒙の理性そのものが、ときに支配の論理へと転化しうることが指摘されてきました。理性は人間を迷信から解放しましたが、同時に、測定可能なもの・操作可能なものだけを価値あるものとみなす傾向も生み出しました。その結果、個性的なもの、感性的なもの、非合理的でありながら人間にとって本質的なものが周縁化されやすくなりました。ホロニカル心理学が重視する“こころ”の生成的・関係的な現実は、まさにこのような還元主義では捉えきれない領域にあります。
現代社会が直面している危機は、その限界をよく示しています。国連は、気候変動、生物多様性の損失、そして環境汚染の拡大を「トリプル・プラネタリー・クライシス」として示しており、私たちの文明のあり方そのものの見直しを迫っています。また、核をめぐるリスクについても、IAEA(International Atomic Energy Agency:国際原子力機関)は、外交と交渉による管理の重要性や、核施設への攻撃が放射線学的に予測不能な結果をもたらしうることを繰り返し警告しています。これは、理性中心の科学技術文明が大きな力を獲得した一方で、その力を統御するより大きな叡智と関係性の倫理を必要としていることを示しています。
だからこそ今、必要なのは近代科学を否定することではなく、その成果を踏まえたうえで、分断されたものを再統合する視点です。ホロニカル心理学では、主観と客観、個と全体、普遍性と個性は、どちらか一方が正しいという関係ではなく、相互に包摂し合いながら生成する関係として捉えます。人は孤立した自我として存在しているのではなく、つねに関係の場において“こころ”を立ち現わせています。この意味で、“こころ”とは個人の内部に閉じた実体ではなく、自己と世界、個と超個とが交差し続ける場そのものです。
近代は、共同体の神話的統合から人間を解き放ち、理性的主体を成立させました。けれども、その次に問われているのは、切り離された主体が再び何に、どのように結び直されるのかという問いです。ホロニカル心理学は、この問いに対して、感性を理性に従属させるのでもなく、理性を捨てて感性へ回帰するのでもない道を示します。主観と客観、理性と感性、個と全体のあいだに生じる緊張をそのまま包み込みながら、より高次の統合を志向する視点です。
いま必要なのは、理性の勝利を誇ることでも、近代を全面否定することでもありません。むしろ、近代が切り開いた批判精神を保ちながら、その限界を見据え、分断された世界をもう一度つなぎ直していくことです。そのとき私たちはようやく、科学を人間のために、文明を生命のために、そして知を“こころ”のために活かす道を見出すことができるのではないでしょうか。