
自己と世界の出あいの直接体験には、自己が見るもの触れるもの聞くものなど、意識の対象となるすべてのものが映されています。意識の野である直接体験とは、内我が直接体験を直覚の対象としたり、外我が自己や外的世界を対象化して観察しようとする前のすべてが主客合一との段階といえます。我の意識なくして出来事を見、我の意識なくして出来事を聞き、我の意識なくして出来事に触れる世界といえます。
無我の直接体験といっても、「タブララサ」(ラテン語。白紙の意)といわれるように純粋無垢ということではありません。自己も世界も歴史的存在です。特に人間にとって自己を取り囲む環境は、自然のみならず歴史的文化的に形成された世界です。したがって人間にとって直接体験とは、常に歴史的文化的社会的なものを包含しているものと考えられるのです。
私たち人間も、世界が作り出した歴史的形成物なのです。
そして私たち人間を取り囲む世界は、自然が歴史的に作り出した物だけではなく、私たちが歴史的に作り出してきた生産物、道具や情報で満ち溢れているのです。
ネズミにとっては、身を隠す物でしかないかも知れない新聞紙も、人間にとってはメディアという社会的意味を持っているところに人間は生きているといえるのです。
創造的世界の創造的一要素として自然や歴史によって作られた人間は、自然や私たち自身が作り出したものによって生き方が制約されながらも、新しい自然や歴史・文化という世界を創造しながら生きているといえるのです。
直接体験レベルでは、歴史的文化的に作られた我が無となり、歴史的に形成された生活世界において行為即直観、直観即行為的に生きているのです。
乗り物として作られた自転車を無心に乗りながら時々刻々とペダルをこぎながら、新しい人生の道を求めて個性的な人生を歩んでいるのです。