
架空事例:いろいろな事例を組み合わせて創作されています。「ノンフィクションフィクション」といいます。
大都市の静かな住宅街に佇む田中家。30代の美咲(母)はフルタイムで働き、うつ病の再発で自宅療養中の健一(父)に代わって、いまでは家計を支える柱であった。主治医の指示もあり、会社を二度目の休職中の健一は、自分のふがいない状態への無価値感に耐えきれずにいた。健一は、自分への苛立ちを隠せなくなっていく中、美咲が、家族会議で取り決めた19時の夕食時間が少しでも遅れると、苛々するようになっていった。それでも健一は、美咲に対して、直接暴力を加えることはなかったが、次第に茶碗を投げたりするように変貌していった。中学一年生の彩花(ひとり娘)は、かつては「お父さん子」だったが、いまでは、すぐに怒る父を恐れるようになり、家の中での居場所を失っていっていた。唯一、人なつっこい犬、ポチだけが家族の絆を保つ最後の糸というべき状態であった。
ポチは、家族の変化を敏感に感じ取っていた。美咲の疲れた顔、健一の怒りに満ちた声、彩花の怯えた目。ポチはその小さな体で、家族の間に立ち、少しでも和らげようと努めてひたすら尻尾を振っていた。
ある日、ついに健一は、美咲を激しく殴打するという行為に出た。その時、彩花は、すぐ近くの交番に駆け込み助けを求めた。警察に助けを求め終わった彩花は、このままでは、怒りの矛先が自分にも向かうことを恐れ帰宅を躊躇するような発言をした。そこで警察は彩花の身柄を保護し、児童相談所に通告した。彩花は児童相談所に保護された。
ポチは、彩花がいなくなった家の中で、さらに孤独を感じていた。美咲の涙、健一の苛立ち、すべてがポチの心に重くのしかかっていた。
彩花は、父を恐れる一方で、もし家族が変われるならば、親友のたくさんいる学校から離れたくなく、ポチのいる自宅に帰りたいとの複雑な気持ちを児童心理司に吐露した。そこで、家族関係の変容や修復可能性を見立てるために、様々な社会調査、心理アセスメントや医学診察が行われた。また、一時保護中、両親との面接を実施し、彩花の家族の修復希望に添う形で、ホームシミュレーション法を導入して、新しい家族関係への変容の可能性を模索することになった。
ホームシミュレーションは、児童相談所の面接室で実施された。参加メンバーは、健一(父)、美咲(母)、彩花(子)、児童福祉司、児童心理司で実施された。
児童福祉司: 「みなさん、家庭内の問題を解決するために、ホームシミュレーション法を試してみませんか?」
美咲:「それはどういう方法ですか?」
児童福祉司:「まず、家族にとって最も危機と感じたときを思い出してもらって、そのときの場面を、間取り図や小物を使って再現します。そのときに抱いた、それぞれの人のそのときの感情や思いを思い出しながら語ってもらいます。話をしている間は、他の人は、何も言わずに、まずはただ傾聴することからはじめます」
健一:「そんなことをして、なんの意味があるんですか」と挑発気味に児童福祉司に質問をした。
児童福祉司:「同じ場面に対しても、それぞれの人が、どのように感じ、どのように思い、どのようにしたかったなどを振り返り、それぞれの人がそれぞれの気持ちを理解しあうことは、お互いの気持ちをより理解するための良い機会になるとともに、何がすれ違ってしまったのかを理解するためにも良い機会になると考えています。それに一時保護中に彩花さんといろいろ話し合う中で、彩花さんは、家族が仲良くなれるならば、家に帰りたいと強く望んでいることがわかりました。しかし、私たちとしては、これまでと同じようなことが家庭で繰り返されず、これからの彩花さんの人生が、より安全とより安心できるものに変わることの必要があると判断しています。そこで、その可能性をみんなで模索するためにも、ホームシミュレーションという方法を試みるのもも良いのではないかと考えています」
児童福祉司の説明に、彩花は目頭を熱くしながらうなづきました。彩花を見た美咲は、「わかりました」と同意をし、「お父さん! やってみようよ」と、優しく語りかけます。すると、健一は、これまでの児童相談所への挑発的で身構えていた姿勢が崩れ、脱力するようにしながら「わかった」と同意を示します。
危機場面は、彩花が警察に助けを求めるきっかけになった夕食をめぐって健一が美咲を殴った瞬間が、児童福祉司から提案されます。
すると、トラウマ記憶がフラッシュバック的に想起されてきたようにして美咲が自ら口火を切り出します。
美咲::「辛かった。もう限界。もう終わりと思った。でも、まさか彩花が警察に助けを求めに行くとは思ってもいなかった」
彩花::「ついにお父さんが、目つきも変わってすごい顔になってお母さんを殴った時がとても怖かった。お母さんがこのままお父さんに殺されてしまうのじゃないかと・・・」と、その時を恐怖感を想起するようにしてをかずかに身体を震わせます。
健一:「あの時は本当にイライラしていた。でも、そのときのことはあまりよく覚えていない・・・」と力なく語ります。
児童福祉司: 「では、そのときの場面をもう少しみんなで再現してみましょう」と、児童福祉司は画用紙を取り出し、家の間取り図を家族から聞き取りながら再現していきます。次の間取り図上で、ホームシミュレーション用の人形を使って、健一、美咲、彩花の立ち位置と、その時、部屋の隅で緊張しうずくまっていたポチが再現されます。こうしてミニチェアの舞台セットのようなものが作りあげられます。
美咲:「ここ(台所のリビングの間を指し)で暴力を振るったんです」
健一:「その時、イライラしていたことは覚えている」
彩花:「お母さんの夕食づくりを手伝っていたら、お父さんが苛々し出し、『何時だと思っているんだ。19時までに準備しろと言っているだろう』と台所にまできて怒鳴り始めて・・・それで、お母さんが、『夕食の準備があるから帰ろうとしたら、今日は、どうしてお願いしたいと頼まれて残業になってしまったの。ごめんなさいね。すぐ作るから」と言ったら、お父さんは、『残業なんか断って帰ればいいんだ!!』と目つきが急に変わりだして・・・それで、お母さんが、『いつもそう言えるけど、その時は・・』と言いかけたら、『口答えをするな!!!。おまえは、俺の言う通りにすればいいんだ。おまえは、日頃から、俺のことを馬鹿にしすぎる!!!』と、ものすごい顔をしてお母さんをついに殴り出して・・・」と、修羅場を一番よく覚えている感じで場面を再現します。
場面再現の間、児童心理司は、ホワイトボードに、3人の語りをドキュメンタリー風に書き写し取っていきます。
児童福祉司:「では、今から、順番に、その時のことを振り返ってみて、今・この場で湧き上がってくる想いを語ってください。その間、他の人は、一切、何も言わずに黙って聴いていてください」
美咲:「あの時は、本当に怖かった。お父さんが、殴ってくるなんて、お医者さんからは、『ご主人は、生真面目な性格な方ですが、今は仕事のことでとても心身ともに疲れきっているから、しばらくは、仕事にいけとか家族の方は言わずに、抗うつ薬を服薬しながら、十分に休ませてあげてください』と言われていたので、そうするように心がけていたけど、それでもお父さんは、いつも何かを思い出すようにして、苛々ばかりするようになって、もう、どうしたらいいのか私もわからなくなってしまっていて・・・。それでもここは、私が頑張って家庭を守らなければと、お父さんが一家の主(あるじ)なんだから、お父さんをしっかりと支えなければと思っていたのに・・・それなのに・・・もう、これからうつ病の夫をどうやって支えていけばいいのか、もう限界で・・・」と嗚咽しながら追い詰められた限界感を露わにします。
健一:「うつ病がまた再発してしまって復職の見通しがつかずイライラしていた。直属の上司からは、『また休むのか。今度休むことになったら三度目だし、またみんなが困ることになるから、今度ばかりは完治してから復職しろよ』と強く言われていたけど、療養休暇の最終期限が近づいても、ちっとも状態がよくなっていかなくて・・・。でも、そうだからといって美咲に当たってしまったことは、今は後悔している。でも、自分でどうして手をあげてしまったのか自分でもわからない。自分自身が自分の父親からさんざん殴られて育ってたので、あれだけ暴力を憎んできたのに・・・」と頭を抱え込みます。
彩花:「あの時、どうしていいかわからなかった。お父さんは本当に怖くて、いつもなら『お父さん止めて』と大声でいえば止めたのに、あの日は止めてくれなかった。それで、もう交番に助けを求めるしか思いつかなかった」
児童福祉司:「では、今度は、それぞれの気持ちを聴いた、たったいま、この瞬間に、ふと湧いてくる気持ちを言葉にしていただけますか」
美咲:「あなたがそこまで復職のことで苦しんでいるとは知らなかった。何も話してくれなかったし・・・私は、今の会社がそんなに辛いところなら、辞めてもいいのではないかと思っていたけど、でも、あなたにそんなことをいうと、すぐに家のローンもあるとか、彩花の進学費用もかかるだろうと言われると、確かにそうかなあと思ってきたので、でも、いざとなれば、お金のことはなんとかなるじゃないかとも思っていて・・・」
健一:「美咲が俺のことをそこまで怖がっていたなんて気づかなかった」と、美咲の思いを知った健一は、ピリピリと張り詰めていた姿勢が一気に和らぎ、初めて内省的な言葉を口にします。
彩花:「私は、お父さんとお母さん、ただ仲良くしてほしいだけ。ポチもそれを望んでいると思う」
この合同面接を通じて、児童相談所は、田中家家族には新しい家族に向かって再生する力があると判断し、①健一、美咲、彩花の個別支援を随時行うこと、②月1回程度の割合で、しばらくホームシミュレーションを実施することを約束し、彩花の希望通り一時保護を解除することを決定します。
その後、個別面接を通して、健一は、原家族での祖父(健一の父親)からの体罰を伴う厳格な躾によるトラウマを抱えており、そのケアの必要性があることが明らかになっていきます。その結果、投薬治療とともに、トラウマ・セラピーのできる臨床心理士のいるクリニックへの転院を健一は自己決定します。また健一は、自分の勤務していた会社のブラック体質を強く意識するようになり、改善の見込みがないと判断した頃には、思い切って転職を決意します。転職後は、うつ病の再発もなく、トラウマケアも順調に進み、彩花からすれば、再び幼少期に感じていた優しい健一と再会することができるようになりました。
彩花は、児童相談所の人のような対人援助の仕事に関わりたいという希望を抱きながら高校に進み始めました。また、美咲は、一連の出来事を通じて、これまでの家父長的な家風の見直し、新たな家族の希望を見出すようになり、以前に比べてとてもアサーティブな人に変わりました。
数年後、ポチは、養護施設職員になっていく彩花と、夫婦の絆をさらに強くした健一と美咲をずっと見守り続け、家族全員に看取られながら永遠の眠りにつきました。