「“こころ”はどこにあるのか」と問うとき、私たちは知らず知らずのうちに一つのパラドックスに陥ってしまいます。
「“感じるこころ”と“感じられるこころ”」、「“考えるこころ”と“考えられるこころ”」、「“見る主体としてのこころ”と“見られるこころ”」「語る“こころ”と語られる“こころ”」——実は、これらはすべて同じ一つのフィールド(場)の中で同時に起きています。そこから立ち上がり、そこに回帰していくような場が、“こころ”といえるようです。
“こころ”を対象化して観察しようとした瞬間、観察主体としての主観が必ず関与します。
そのため、同じ“こころ”について語っているつもりでも、観察主体が異なると観察対象の差異として顕れ、“こころ”のありかやそのイメージに違いが生じてしまうのです。
ここには、量子物理学でいう観察問題と同じようなパラドックスが生じます。
実際、主観と客観が分離した瞬間、こころは多様なイメージとして立ち顕れてくるのです。
ここでホロニカル心理学は、次の仮説を立てます。
では、主観と客観が分かれる以前はどうなっているのか。
主観と客観が生まれる前に、すべてが置かれているような“場”が存在するはずだという仮説です。
この“場”は、本来、言詮不及の領域です。
それは、名を与える以前の出来事そのものを意味しているからです。
主観と客観、言い換えれば自己と世界が区分されるということは、区分される以前の状態が必ず存在しなければなりません。
このテーマは、西洋の「有」の思想とは異なる、無我・無心といった東洋が長く探究してきた「無」の思想につながります。
無我・無心のとき、主観と客観の区分や、自己と世界の区分は消え、すべては“あるがまま”に顕れます。
ホロニカル心理学では、主観と客観が分かれた後だけでなく、分かれる以前の状態も含む“場”を、広くひらがなの“こころ”と考えています。
もともと根源的には、全一の場としての“こころ”が、主観と客観に分かれた途端、あたかも千差万別の形で流れ出てくるのです。
根源的には全一の“こころ”と、多層・多次元に分節される世界は、実はコインの表裏のように同じものと考えられます。
これは華厳思想の「一即多・多即一」に相当します。“こころ”の現象は、この一即多・多即一として立ち顕れてくるのです。
こうした“こころ”の捉え方は、個人の意識=“こころ”として、“こころ”を個人の内側の内的世界に限定してきた明治以降の西洋心理学とは立場が異なります。ホロニカル心理学が捉える“こころ”のあり方は、西田哲学の「絶対無」や仏教の「空(くう)」と極めて相同的です。
私たちが“こころ”を持つのではなく、むしろその逆で、私たちは“こころ”というフィールド”において感じ、考えているということになります。
このような“こころ”の捉え方は、日本では古来より存在していたと考えられます。
明治以降、西洋心理学が導入され、近代的自我を中心とした“個人の内的世界としての“こころ”という枠組みが広まった結果、こころの理解はむしろ限定されてしまいました。
しかし、明治以前、さらには神話の時代に遡れば、日本人は無心・無我の境地において、自己と世界の区分が消え、一体化する瞬間に“もののあわれ”を感じ取っていました。芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだのも、まさにその境地においてです。
個人意識を超えたトランスパーソナルなレベルで、神や仏の“こころ”感じていたのです。
心理学は今、この失われた“こころの場”を取り戻す必要があると真剣に考えています。